ふわとろオムライスになれたら

現役Webライターが綴る、仕事のあれこれや日常の中で感じた「思考」の原石。

3種のチーズ牛丼を食べていたらトロッコ問題に行き着いた

どうも、チーズ牛丼にはタバスコを5、6振りしてから食べ始めます。一身上の都合です。

 

ついさっき、腹ペコですき家にたどり着いたときのこと。私は運ばれてきたチーズ牛丼を前にして哲学の思考実験「トロッコ問題」を思い出しました。

 

その理由についてお話しする前に、ちょっとすき家について語っていいっすか。

 

牛丼屋の店員さん特有の空気ってありますよね、スピード感を保ちつつお客様に失礼のない態度を貫くあれ、すごくないですか?

 

あえて言い方を悪くすれば、牛丼屋に入店してくる客層ってそこそこ悪いじゃないですか(地域にもよります)。

難癖つけてるおっさんとか見ましたし、私も元飲食業の人間ですから客層の良さと単価の逆相関については理解しているつもりです。

ちなみにこちらの記事がかなり的を射ていますので気になる方は参考までに覗いてみてください。

(参考→https://www.google.co.jp/amp/s/webtan.impress.co.jp/e/2008/10/29/4224%3famp)

 

なんの話だっけ、そうそう……牛丼屋の話です。

 

入店した人の仕草や振る舞いをさりげなく観察しながら、すでにオーダーを決めて入店してくるタイプのお客かどうか見極める店員が多いんですよ、牛丼屋って。

 

メニューに手を伸ばすかどうか、とか。

注文したがってるかどうか、とか。

 

とにかく観察して、相手にストレスがかからないようにさりげなくサービスを行うのって、ホスピタリティの基本であり究極でもあります。

 

私はいつもメニューを眺めて選んでしまうのですが、それをファーストコンタクトで読み取り、

『ご注文お決まりになりましたらベルでお呼びください』ってお茶を置いて立ち去るの、平然とやってますけど凄いんですよ。

接客においてかなりの高等技術なんですよ、アレ。

 

まあでも人によっちゃもうほぼハンディ開きながら来ますけどね。

熟練のおばちゃんなんて、もはや注文は私が決めると言わんばかりの速度でハンディ開きますからね。ビビります。

 

「どうせ牛か豚かカレーしかねぇだろオォン!?」

「いっちょまえに悩んでんじゃねぇ遊びじゃねんだぞコラ」

 

っていう声が聞こえてきそうです。

とにかく、過度なサービスも無駄な会話もない、ただ秒速でこちらにストレスをかけないまま注文を済ませて、お茶に少し口をつけている間に美味い丼が運ばれてくるんです。

 

私はあれこそ職人だと思いますね。

 

サービスでごまかそうとしない正々堂々とした飲食店の生き様を見せつけられる気分ですよ。

美容院も見習ってくれ。

「お仕事何してるんですかー」じゃねぇよお前、相手見て会話振れ。世の中には仕事してない人もたくさんいるんだよ黙って髪を切ってくださいお願いします。

 

閑話休題

 

ともあれいつも通り、チーズ牛丼にタバスコを6回振りかけ、今日はちょっと大人な気分だったのでさらに1振り追加してから食べ始めた私でした。

 

その瞬間、ふわりと面白い香りが鼻腔をぬけていくではありませんか。なんともミルキー、滑らかで芳醇な香り。

 

少し考えて、牛乳に似た匂いだと気づいたのですが、もちろん3種のチーズ牛丼にそんな隠し味は入っていません。

というか、なんならチーズがぶっかけられてるんだから隠れるも何もありません。

 

「牛乳が振りかかってるようなもんだし、当たり前か」

 

そう結論付けてもう一口食べている時に、ふと、「牛丼にチーズって、もしかしたらこの牛、自分が生きてたころに搾り取られた乳にまみれているんじゃないか。あの時搾取された乳と時を超えてこのほかほかご飯の上で邂逅したのではないか」と考えてしまいました。

 

キモすぎワロタ。

 

いや、でも確率的にあり得ることじゃないですか?

 

私は酪農や屠畜場の関係者じゃないですしすき家のバイヤーでも、商品開発部に従事する人間でもありません。

 

故にどんなルートでチーズや牛肉が仕入れられてるのかは分かりません。

でも、牛の肉の上に、その動物から搾り取った液体を腐らせて作ったドロドロの物体をかけて、唐辛子のエキスをぶちまけてから食べてるんです。

これを「美味い」と思ってるんですよ、マジで気持ち悪くないですか、人間。

 

宇宙人が見たら「キモすぎて草」って吐き捨てて逃げますよ、変態ですよ、変態。

誰かが「人間から味覚を奪えば人生の楽しみは半分以上消えて無くなる」とか言ってましたけど、いや確かにそうなんですけど、それにしたって味覚の変態という自覚があまりに足りなくないですか、人間。

 

「牛丼」とか「豚丼」とか「親子丼」とか名前をつけてはいますけど、どれほど格式張ったお店を開いたって実態は、自分たちの味覚を喜ばせるためだけに気持ち悪いことを平気で行う野蛮な生き物なんですよ。

 

だって、親子丼とか最高にクレイジーな料理ですよね。倫理どこ行った、って感じですよね。

想像してみてください。あなたはお母さんで、なんとかひり出した子供がどこかへ連れていかれて、自分は殺されて肉片となった後、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられた自分の子供が降りかかってくるんですよ。グツグツ煮込まれるんですよ。

 

クローンとか、デザインベビーとか、そんな瑣末な問題じゃない。

鳥の親子をぐちゃぐちゃにして米にかけて食ってるんですよ、それ定食屋のカウンター席でもぐもぐ食いながらワイドショーのデザインベビーに関する議論を眺めて「人間が神の領域に踏み込むなんてありえな……ごくん。おばちゃんお勘定!」とか言ってるんですよ。こんなの神の領域どころか邪神や破壊神ですよ、もはや。

 

(補足しておくと、私は別に動物愛護活動を行なってるわけじゃないです。肉も魚もバンバン食べます)

 

しかし、料理の発明によって人生を飽きずに全うできるのも事実。味覚って本当に人生の満足度と直結してますよ。

食事や料理がなければ私たちはこんな味気ない時代を生きてはいけないでしょう。

 

生きててよかったーって思うのは大体美味いものを、最高に気の会う友達や恋人や家族と食ってる時ですもんね。

分かりますよ。

 

だからこそ、自分たちが「ど変態」だって気づくべきなんじゃないかなって、思うんです。

 

 

ところで、トロッコ問題という言葉をご存知ですか?

 

有名な思考実験のひとつですからご存知の方も多いですよね。

 

暴走したトロッコの先には線路の分かれ目があって、片方には数人の作業員、もう片方にはひとりの作業員が気づかず作業をしている。

 

あなたの手元には線路を切り替えるレバーがあり、このままトロッコが進めば複数人の作業員がいるレーンへ突入して彼らが全員死にます。

しかしあなたが、レバーを引けば、その作業員たちは助かります、そしてかわりにもう一つのレーンで作業をしていたひとりが死にます。

 

あなたはレバーを引きますか、引きませんか。

 

という悪魔みたいな思考実験。考えたやつ絶対友達いないよね。

 

ところであなたはどちらを選びますか。引くか、引かないか。

 

多くの方は引く、と答えると思うんですよ、人数的にも多くの命を救えますしね。

 

多数の命を助けられるならひとりを殺す方が良い、誰でもわかる簡単な論理です。

 

ではそのひとりの作業員をあなたの大切な人に置き換えましょう。

 

レバーを引き、レーンが変わった先にいるひとりが、あなたの大切な人だったら。

 

引けますか?

 

引いてくださいよ。

 

さっき「大勢が助かるなら」ってレバーを引く方を選んだんですから。

 

論理的な結論ですよね。

 

ひとりが死んで数人が助かる。

 

あなたはあなたの手で大切な人を殺し、かわりにたくさんの命を救いました。

 

讃えられて、感謝されて、助かった作業員のひとりから美人の娘さんを紹介されてしあわせな家庭を築くかもしれません。

 

あぁ、なんて幸福なんでしょう。

 

……そんな風に割り切れないから、私たちの生きる世界は辛くて苦しい。

 

こうやってジレンマについて思考するだけで、息が苦しくなってきます。

意地悪な質問をしてすみませんでした。

 

この思考実験が教えてくれるのは、別に大勢のために自分を差し出せとか、世界を敵に回してでも自分の大切な人を守れとか、そういう泥臭い精神論じゃありません。

 

「選択に責任を持て」ということです。

 

レバーの前に立ったあなたはレバーを「引く」「引かない」という決断を下せます。

 

その選択に責任を持つために、いざという時に迷わないように、普段から思考し続けろということです。

 

レバーを引く瞬間はいつだって突然訪れます。

 

代行のお金をケチって、忘年会の帰りに飲酒運転で帰ろうと車にキーを差し込む瞬間。

 

久しぶりに友人から「飲みに行かないか」とだけ書かれたメールを受け取って、不自然さを感じながらも忙しさを理由に断る瞬間。

 

有名な落語家、立川談志さんはガンを宣告された時にこう考えたそうです。

「世の中いきなり死んでしまう人がたくさんいる中で、死ぬ準備が出来るだけありがたい」

と。

 

レバーを引く準備ができる状況に、私たちはいつでも居られるわけではありません。

 

突然レバー前に立たされた時、迷わないように、普段から哲学を備えておく必要があるのだと思います。

 

あなたにとってのたったひとりの作業員は、今どこで何をしているんでしょうか。

 

なぜ突然こんな話を始めたかというと、3種のチーズ牛丼を食べていたら突然不安になってきたんです。

 

私なんにも知らないんだ、って。

 

牛が殺される瞬間も、チーズがどうやって作られるのかも、すき家で働く疲れ切ったお兄さんの過去も未来も何も知らないんですよ。

 

知らないまま、お金だけ払えば結果が手に入る。

 

美味しい「牛丼」って料理は運ばれてくるし、それを食べれば満足しちゃうんですよ。

 

人生も悪くねぇな、なんて思いながらタバコに火をつけてしまうんですよ。

 

本当はその過程に意味があると思うんです。

 

牛はどうやって殺されて、すき家仕入れられるチーズはどうやって作られて、お兄さんの名前や夢はなんだったのか知って、うまくいえないけどそういう過程の部分が見えないベールに覆われているのが今の時代なんじゃないかって思うんです。

 

お金を払えば、確かにそういう面倒なところは見なくて済む。

手軽に人生の美味しいとこどりができる。

 

でも、悩んだり思考したりする時間が失われている。

 

お金じゃ買えませんよ、レバー前に立たされた時のシンキングタイムは。

 

普段から、自分の選択について責任を持つために考える癖をつけておかないと、いざという時必ず後悔します。

 

私たちって命や生きる意味に執着する変態なんです。

 

変態は変態らしく、命に真っ向から向きあってみませんか。

昨今のインスタントすぎる命の消費に、ちょーっとばかし疑問があったので言語化してみました。

読んでいただいて、ありがとうございます。

 

などとカフェでカタカタ綴っている私も、立派なド変態なのでした。そしてこれを読んだあなたも。

 

変態同士仲良くしましょう、よければブクマお願いします。