自分のことがわからなくなったのでトイレで自問自答していたらラブレターを書きたくなった話
突然だけど、俺の住むシェアハウスにはJKの女の子が住んでいる。
彼女は母子家庭で育っていて、軽くネグレクトを受けているように見えた。
彼女と仲良くなるにつれて、冷めきっている心の中が読み取れるようになった。
この間、俺は彼女から「外で話したい」と相談を受けた。
10代が抱えていることなんて、他愛もない話だと思った。
甘い考えを浮かべる俺の頭蓋を揺さぶるように、彼女は重々しく口を開くと、ぽつりぽつりと話し始める。
聞き終わったとき、正直、俺は何も言えなくなっていた。
全てが俺と似ていた。
泣きながら話す目の前の少女は、17歳の俺だ。
そう思った。
それくらい、感じていることや世界への立ち居振る舞いが似通っていたから、俺は動揺を隠すのに苦労した。
他人事なら、上手く話せるのに。
俺が過去の自分へ向けて放つ言葉はいつもどこか無機質な冷たさを孕んでいる。
「それは上手くないやり方だろう」
「間違っていると分かっていてなおそのスタイルを貫くのか」
「知ったような口を利いて、恥ずかしくないのか」
といった具合に。
だから、きっと俺は彼女にとって優しくない言葉をかけてしまったんだと思う。
端的に言えば、彼女の生き方を否定した。
彼女はそうするしかなかった。
ほかに生き抜く術がないからと、彼女が泣く泣く汚したその心の汚さや脆さを責めたんじゃないかと思う。
俺はたぶん、彼女にとってようやく出会えた「まともな大人」のひとりだったんだろう。
正直、その自負はあった。
俺はいつも彼女にとって最高に耳障りの良い言葉と声音で話すよう心がけていた。傷ついているのが目に見えていたから、痛まない温度を心がけて関わった。それは苦じゃなく、むしろ俺もそうしたいと望んでいたことだった。
無意識のうちに、17歳の自分と彼女を重ねていたんだろう。
俺は彼女を通して、自分に優しくしていたのかもしれない。
そう思う理由のひとつは、俺と彼女が世界と関わるときに取るスタンスが、ひどく似通っていたこと。
もうひとつは、それ故に彼女の心の流れがひどく鮮明に理解できること。
俺はきっと、彼女に自分を投影していた。
唯一、俺と彼女の相違点を挙げるとすれば、悲しみや苦しみから逃げずに言葉にし続けてきた経験の数だ。
俺は、もうそれしかやってこなかった。
ほかに方法がなかったものだから、狂ったように言葉を扱ってきた。
彼女はひとしきり泣いたあと家に帰ると、もういちど涙を流した。
嗚咽と涙で感情がごちゃまぜになりながら、この世で最も温かい言葉を口にした。
「私が頑張れば、お母さんの負担を減らせるんじゃないかって」
これだけの風雨にさらされながら、冷え切った心と身体で、なお母親からの愛を求めていた。
狂気と言わずに、なんと表現すれば良いのかわからない。
俺にはそれが、ひどく美しい人間の姿に見えたし、その実おぞましい呪いに苦しむ囚人のようにも見えた。
何も言うべきじゃないのかもしれない。
俺だって、まだ答えが出せたわけじゃないのだから。
先日、母親が酒を飲みすぎて倒れていた、と聞いた。
猛暑のなか、水分を摂らずに酒だけを飲んでいたせいで脱水症状を起こし、倒れる。
そんなことは以前から何度かあった。
その度に俺は「死にたいの?」と怒っていた。
本当は「死なないで」と言いたいのにもかかわらず。
ああ、俺は彼女となんら変わらない。
そう思った。
母親からの愛情を誰より欲していて、父親からの安心感を狂おしいほど探している。
もうきっとどこにもないものを、記憶の中や今や未来に探し続けている。
なんて滑稽で、理不尽なやつだろう。
でも、一つだけ気づいたことがある。
俺は、もしかしたら彼女もまた、何も終わっちゃいないということ。
なぜなら俺も、もしかしたら彼女も、人に愛されることを強く望んでいながら、他者を愛したことがなかったのだから。
好きなものを所有しようとしていた。
離れていかないよう、抱きしめて離さないよう万力を込めていた。
壊してしまうことが何度もあった。それでもやめられなかった。
それが愛だと勘違いしていた。
母親に対してもそうだった。
俺は母親に対して「死なないで」と言いたかった。
それは母親の命に所有欲が湧いている証拠だった。
本当の愛は、きっと、もっと残酷で儚いものだと思う。
「死にたいのなら死ねばいい。でも、あなたが死んだら俺は悲しい」
それだけで、たぶん愛は完成していた。
離れていかないように抱きしめる必要なんて、ハナからなかったのだ。
俺は母親が死んだら涙が枯れるほど泣くのだろう。
生まれて初めて俺を愛してくれた人であり、生まれて初めて俺が愛そうとした人であり、そして生まれて初めて俺が尊敬した人間だからだ。
正しくない母親だったけど、世界の不条理を目の当たりにしながらも正しく生きようとする強さを備えた人だった。
この歳になって痛感する。
俺はあの人の息子だ。
だから、これからも正しく、強く、誠実であろうと思うのだろう。
紛れもなく、これは母親から受け継いだ魂だ。
今の母親にその気高さはない。
見る影もなく変わってしまった彼女は、自死すら厭わないほどに弱っている。
長い風雨にさらされて、もう余力がないのかもしれない。
それでも、まだ覚えている。
朝方、夜勤明けに帰宅した母親と缶チューハイで乾杯したあの朝のことを。
介護施設で、非正規雇用であるにもかかわらず正社員よりも懸命に働いていた母親は、ある日「お金のために夜勤のシフトに入る」と告げた。身体的にも精神的にも余裕なんてなかったはずなのに、彼女は迷うそぶりも見せず俺と兄に言い放った。
当時、俺は小学校低学年、兄は高校生になりたてだった。
夜勤を始めた母親は生活リズムが逆転し、俺や兄と過ごす時間を削らざるを得なくなった。そうなることを、理解はしていた。納得をしていたかは、分からない。
夜のほうが時給が高いこと。
俺の父親からの養育費が少ないこと。
兄が高校に行った時点で家計が苦しくなったこと。
母親が夜勤だけはしたくないと最後まで葛藤していたこと。
母親が夜勤をはじめてから少し経ったころ、俺は生まれて初めて初詣以外の日に徹夜をした。
眠れなくて、テレビショッピングを見ているうちに空が明るみ始めて、眠ることを諦めてからは時計を眺めて母親の帰宅を待ち望んだ。
母親は静かにドアを開けて、俺と兄を起こさないように帰宅したけれど、すぐに台所で座っている俺に気づいて、驚きながら形だけの説教をした。
その表情が柔らかくて、全く怒っていないことは、すぐに分かった。
母親は、帰宅すると決まってマイルドセブンに火を着ける。
タバコを吸いながら、俺に甘ったるい缶チューハイを手渡して、言った。
「ごめんね、一緒に過ごす時間が取れなくて」
「大丈夫だよ、俺も家のこともできるだけ協力するし」
そんな会話をした。それだけで、言葉にしていない何千、何万という情報が酌み交わされた気がする。カシスオレンジの香りはどこか切なくて、とろけるような口当たりが俺と母親の無常を夜に溶かした。
結局、俺はその日の学校をサボり、母親は泥のように眠った。
兄は遅刻ギリギリで高校へ向かった…と思う。
正しい家庭ではなかったと思う。
母親からの愛情を受け取れなくて、受け取りたくて、背伸びして、大人のフリをして。
「頑張っているね」と認めてもらうことで、その言葉を愛に代えようとしていた。
俺はあの日からずっと変わらない。
母親から「愛しているよ」と言われる日を、待ち望んでいる。
そのために、俺は誰より金を稼がなきゃならない。
誰より力を手に入れて、家族をあるべき姿に正さなきゃならない。
もう一度家族を始めなければならない。
そうしてようやく、あの朝、缶チューハイとともに飲み込んだ言葉を供養できるのだと思う。
大人にならなくちゃ子供に戻れない人間は、きっと少なくないのだと思う。俺がそうであるように。
年齢の割に大人びている理由や、誰より人に気を使う理由はそこにある。
ずっと大人の真似をしてきたんだ。上手いに決まってる。
でも、俺は子供になりたい。きっと俺の前で涙を流した彼女も、同じ感傷を抱えて、生乾きの傷を持て余したまま夜を超えている。
俺は、あの朝にカシスオレンジと一緒に飲み込んでしまった言葉を素直に吐きたかった。ただそれだけが、俺の求める全てだった。
そんなことを考えていたら、無性にラブレターを書きたくなった。
思い返せばラブレターをもらうことは多かったけれど、あげた経験は少ない。
でも、書いてみると意外に面白いものだった。
どれだけ言葉を尽くしても、「愛している」に勝る言葉なんてこの世には存在しないことを、ひしひしと感じる時間だった。言語はシンプルなものほど心に刺さる。そもそも合格した覚えもあまりないけれど、いよいよ本格的にライター失格かもしれないな。
生まれながらに子供でいられた人へ。
どうか俺のことを軽蔑しないでほしい。
俺は決して悲劇のヒロインなんかじゃない。悲劇のヒーローに憧れたのも、もう昔の話だ。
本心を言えば、ただ素直に「愛して」と言いたい。
それが言えなくて、こんな回りくどい22年を過ごしたバカがいることを、ただ、認めてほしい。
「愛してよ」「愛してる」と言えるあなたに憧れて、一方的に憎むことも多かった。
ただの逆恨みだ。許してとは言わない。
言い訳するつもりも、俺の人生が言い訳になるとも思っていない……嘘だ、本当はちょっとだけ思っているけれど。
それでも、俺のこれまでの行い全てを棚に上げて、あなたに言葉を贈るとしたら、俺は「認めてほしい」としか言えない。
ただ、隣り合って笑いたかった。
否定せず、同情もせず、俺のことを見て好いて欲しかった。
もしかしたら、あなたのことを認めずにいたのは俺の方かもしれないけれど。
それでも、もし、もう一度やり直せるのなら、俺はあなたや世界と手を繋いで、光の中で生きていきたいと願っている。
俺を優秀だと評価してくれる人へ。
正しい道でなくとも、その過程で傷つきながら身につけた武器を褒めてもらえると、泣きそうになるほど嬉しい。
生きてきたことは間違いじゃなかったと、そんな風に思えてしまう。
きっとこれは歪な自信だ。そう分かっていながら、いつもどんな顔をしていいのかわからなくなるくらいにむず痒い幸福に襲われる。
ここだけの話、本当は優秀になんてならなくてよかった。
俺は別に、強くならなくてよかった。
望んで手に入れた能力なんて、きっとひとつも存在しなかった。
でも、愛されるにはこうするしかなかったんだ。
俺の人生はずっとそんな風に歪で、帳尻を合わせながらなんとかやってきた。
そうしたら、あなたに出会えた。
俺の歪さを認めてくれて、あまつさえそれを魅力だと言ってくれてありがとう。
愛してると伝えてくれた人へ。
あなたには想像もできないほど、俺はその言葉を渇望していた。
望みすぎて、手に入らないことが悔しすぎて、あなたを含めた世界全てを憎んでしまうほどに。
イソップ童話の「酸っぱい葡萄」に例えれば、この世にある全ての葡萄を根絶やしにするために強くなった狐、それが俺だと思ってもらいたい。
でも俺は臆病で、それ故に愚かだった。
万力で抱きしめて、あなたが離れていかないように、必死だった。
もう手の中に握ったあなたが「あなただったもの」に変わり果ててしまったことにすら気づかないほど。
それでも、それでも俺の腕の中に残ったあなたは、最後にかけがえのないものをくれた。
はなればなれの人生を送ろうと、どれだけ変化を遂げたとしても、一緒に生きた時間は間違いなくお互いの人生に息づいていること。
それが人が抱く普遍の感情、愛の残り香であること。
つまり俺とあなたは、互いに原型がなくなるほどに傷つけ合いながらも愛しあっていたということ。
皮肉にも、俺はあなたを愛する前に「ヤマアラシのジレンマ」について話したけれど、それでいうなら俺とあなたは互いの針を深く刺しすぎた。
俺の心はあなたの針で絶命したし、あなたの心も俺の針で絶命した。
今になって思えば、精神的な死を迎えられたことを感謝している。
俺はもともと、この世界が気持ち悪くて仕方なかった。
それでも、今は、あなたのような人が生まれた世界を、愛しています。
たった二人の家族へ。
死んでほしくない。
何があっても、生きていてほしい。
これは俺の所有欲だ。
俺が愛を渇望すればするほど、あなたたちに死なれることが怖くなる。
知らないだろうが、あなた達のようなアウトローはどこかでなにか間違えれば簡単に死ぬんだ。
運良く生き延びているだけだから、俺はずっと気が気じゃない。
でも俺も同じことをあなた達から言われるんだから、まぁ、似た者同士なのかもしれない。
今なら、「死なないで」とは違う、新しい言葉が扱えるんじゃないかと思う。
もし、あなたたちが死んでも。
どのように生きていても。
俺はずっと愛している。心の底から。
だから、俺を愛してくれたら、きっと死ぬほど嬉しいよ。
そんな日がいつか来ることを夢見て、もう少し頑張ってみようかなって思う。
もちろん、あなたたちのためだけじゃない。
他の誰でもない俺、
俺が愛している人。
将来、俺を愛してくれる人。
過去、俺を愛してくれた人。
少なくともそれくらいは抱えられるように、生きてみたいんだよね。