ふわとろオムライスになれたら

現役Webライターが綴る、仕事のあれこれや日常の中で感じた「思考」の原石。

不幸の沼がちょうど良い温度になっているのは、人間に備わった最大のバグだ

三秋縋という小説家の言葉を借りれば、人間はどこかのタイミングで穴に落ちるらしい。

その穴の深さや暗さ、抜け出しづらさは人それぞれだが、その穴に落ちたが最後、人は苦悩にさいなまれる日々を送らなければならない。

俺の場合はそれが生まれたその瞬間から続いていたわけだけれど、きっとそういう人は現代社会では少なくない。核家族や貧困はもう珍しいことじゃなくなった。ネグレクトやDV、アル中、生活保護なんて溢れかえっているし、漫画や小説でも「ありきたり」の設定になっている。ぶっちゃけ、異常だ。

 

なぜこうも人は不幸から抜け出せないのか。自分なりに考えてみた。

結果、不幸の沼(三秋縋が言うところの『穴』)は、人間にとってちょうど心地よい温度になっているからだ、という結論に至った。

 

わかりやすい不幸は同情を誘い、人々の正義心を煽る。わかりやすい例が募金やボランティア活動だ。

いきなりうがった見方をしてしまうが、募金やボランティアといった「無条件に人の上に立てる状況」が気持ちよくない人間などいないので、他者の不幸は凡庸な人生を送る人にとっては最大のスパイス、麻薬、嗜好品になるだろう。

急に福祉に目覚める連中が大嫌いなのは、そういった理由からである。同様に、人並みの正義感しか持ち合わせておらず、またやりがいを感じているわけでもないのに警察官を目指す連中が嫌いなのも、根本的に「正義」という名のもとに他者の上に立って自分が気持ちよくなりたいだけだ、というホンネが透けて見えてしまうためだ。

 

こういった「無条件に上に立ちたい」という群集心理の渦中にいる人は、その本質には気づかない。

表面的な優しさや愛情もどきの言動を受け取るために、自分の不遇を利用する人だっている。なぜならお得だからだ。

不幸の渦中にいる人と、不幸な人を利用して気持ちよくなろうとする人は、互いにオナニーをしあっているだけにすぎない。

言いたいことをいい、言われたいことを言われるように誘導し、気持ちよくなる言葉だけが交わされるその空間に、本物の救いなど存在しない。風俗のサービスに愛を感じないように。ホストクラブやキャバクラで交わす言葉がウソまみれであるように。

 

不幸の沼は、初めは立ち入った人をひどく傷つけ、苦しめる。

不運にも不幸の沼に足を踏み入れてしまった人は、自分の境遇を呪い、呪縛から解き放たれようと必死にもがくだろう。そこで抜け出せるのなら救いはある。

しかし、どれだけあがいても抜け出せない人だって、一定数は存在する。その沼が深すぎるのか、単純にその人が虚弱なのか、あるいはその両方か、理由はそれぞれだ。

問題は、その人が「この沼からは抜け出せないみたい」と思ってしまったとき。そこから不幸の沼は一転して「気持ちの良い居場所」に変わる。

 

例えば俺は「生活保護」「片親」「DV」「アル中」と役満レベルで沼が揃っている。一つの沼を超えて満身創痍になった俺を、また新たな沼が待ち構える。黒田官兵衛が腰を抜かし、諸葛亮孔明が泣いて許しを乞うほどに隙のない完璧な布陣である。

 

この沼地を超えてきた俺が思うに、沼というのはそれだけで非常に強力なアイデンティティたりうる存在であると思う。

 

「偏差値35から東大の首席に!」という文言が魅力的なのは、「東大」というだけでもすごいのに、出発点が「偏差値35」だからだ。振れ幅が大きければ人は感銘を受ける。

また、「偏差値35の少年が万引き行為を犯した」という文言には妙な説得力がある。

「万引き」という言葉のマイナスと「偏差値35」という言葉のマイナスが上手く調和して、「そりゃそうだよな」という感覚を引き起こすのだ。

人は物事を理解するときに「ストレスなく受け取れるもの」を愛する傾向にある。逆に、理解しがたい状況に陥ると自分の信念や常識的な思考を捻じ曲げてでも現実を受け入れようとする。

これを心理学的には「認知的不協和」と呼んだりするが、結局のところ、人間は分かりやすいものが好きで、分かりにくいものは捻じ曲げなければ理解しにくい、ということだ。

 

話をもどすと、沼がアイデンティティたりうると述べたのは、この認知的不協和が密接に関わっている。

ありえないほどのマイナスを背負った瞬間から、その人の行動には特異性が付与される。

プラスの結果を得れば「ギャップ」が、マイナスの結果を得れば「理解」がつきまとう、といえば分かりやすいだろうか。

 

家庭環境が崩壊している家庭に生まれた少年が非行に走れば、人は口を揃えて「そりゃそうなるよ」と言うだろう。

逆に、この少年が人を助けたり、猛勉強をして特待生として進学したりすれば「とても優秀な子だ」と言うだろう。

非行も進学も、べつに珍しい話ではない。どこもかしこも反社会的な行動と向社会的な行動で溢れかえっている。

それでも、特異な環境を経験している人が何らかのアクションを起こせば、それはその人のアイデンティティとして認められてしまうのだ。

 

その結果、プラスやマイナスが実像を超えて誇張されたり、本人が必要以上に自分の価値基準を環境に合わせてしまったりする。これでは本来の自分の姿が見えにくくなる一方ではないだろうか。

くわえて、不遇な環境にいる人は他者のオナニーに使われてしまうことだって少なくない。その過程で表面上の満足を得てしまうと、自分のホンネをさらけ出して関わろうという気持ちが起きなくなってしまう。

自分のアイデンティティは沼地にあるのだ、と強く信じ込み、どんどんその深みにハマっていくのだ。

 

最初は抜け出したいと強く願っていたはずの沼地が居心地の良い空間になるのは、ちょうどこのあたりだろう。

自分のアイデンティティと不遇な過去が結びついたとき、人は停滞してしまう。

ここでいいや、ここでも気持ちいいしいいや、解決しなくていいや。と、どんどん沼に留まる方向で心理を片付けてしまうだろう。

不幸の沼がちょうど良い温度になっているというのには、このような背景がある。

そして、この「不幸が気持ち良い」という状況に陥った人を見たり、自分の過去を振り返ったりするなかで気づいたのが、「不幸が気持ちいいってバグじゃないの?」という点だ。

 

不幸を気持ちよく感じるなんて、常識的に考えておかしな話だと思う。

しかし、ここまで紹介してきたとおり、人は不幸に愛されてしまうと抜け出せなくなるものだ。

この最大のバグを他でもないあなたが認めて、客観的な視野を持って分析し、今後の意思決定に役立てることができれば良いだろう。

 

さて、文句ばかり垂れても仕方がないので、不幸の沼を抜け出すための言葉を幾つか紹介しよう。

 

 

「不幸を気持ち良いと思うのは『認知的不協和』と『学習性無力感』などが密接に関連している。あなたのせいではない」

 

といったように学術的な視点からアプローチしてみると、意外とすんなり理解できたりするものだ。

 

今、自分が不幸の沼に浸かっていると感じるのであれば、そのぬるま湯を断ち切って、正しく温かいお湯を浴びるか、冷たい雨の中を走って行く覚悟をもつか、どちらかを選ばなければならないのである。

冷たさと同様に熱も伝播することを僕らは本能的に理解している、という話

ふわとろ、ネカフェで仕事するのが最近のマイブームになりつつある一身上の都合です。

ネカフェってどことなく秘密基地感があるのでめちゃくちゃ好きなんですが、あまり理解してもらえなくて悲しいですね。

 

ネカフェで仕事しているといろいろな人を目にします。

すれ違うだけで臭い人、漫画を読み漁りに来た臭い人、恥ずかしそうに萌え漫画を抱えて部屋に戻る臭い人……etc

臭い人しかいないわけじゃないんですが、僕がよく行くネカフェはかなり臭いんですよね。僕も例に漏れず臭いので逆に居心地が良いです。

 

まぁそれは置いておいて、ネカフェではなぜか仕事が捗ります。この文章もネカフェの個室でマッサージチェアに揺られながら書いていますが、いつもの1.5倍くらいで筆が進むんです。

 

その理由は、ネカフェの「秘密基地感」が僕に火を着けているからだと思います。

 

ネカフェで仕事をしているとき、僕は世界一カッコいい男になっている

秘密基地って四文字だけでとてつもなくワクワクしますよね。

大きなパソコンに適度な狭さの個室、薄暗い照明、たくさんの娯楽……。

誰にでも快適な「ひとりだけの空間」を提供してくれるネカフェは、秘密基地に最も近い商業施設のひとつと言ってよいでしょう。

その空間に身を置き、リモートワークに取り組む僕は世界一カッコいい男なんです。

誰がなんと言おうと、天神のネカフェでUVERworldを聴きながらタイピングをしている僕は世界一カッコいいんですよ。

 

そして、こういう中二病的な思考って誰にでもあると思うんです。

ただ、大人になるにつれて僕らは中二病を卒業していきます。

 

恥ずかしいし、痛いし、現実見えてないし。

何より青臭い。ネカフェの臭さとはまた一味違う臭さがあるので、社会で鼻つまみ者にならないために僕らは中二病を卒業することを強いられます。

 

そこまで考えてはたと気づいたことですが、僕はシェアハウスの住人である高校生の女の子にこの間こんな話をしたんです。

 

中二病的思考は全く恥ずかしいものじゃない

 

中二病的な思考って全然恥ずかしいことじゃないよ。起業家の自己啓発本や偉人の本はたいてい中二病的思考を垂れ流してるだけだし、その思考自体は全く悪いものじゃない。でも思考ばかり身につけて実際の行動が伴っていないから中二病は恥ずかしいこととみなされているだけだよね」

 

続けて

 

中二病的な思考を捨てずにいた人だけがチャンスを手にするし、中二病的な思考を現実にするために生きた人だけが成功を手にするんじゃないかな」

 

我ながら青臭くてかないませんが、こんな言葉を偉そうに吐いたのです。

発言者である僕は起業家でも偉人でもないので、まったく説得力がありませんが、発言した内容自体は間違っていないと思います。

 

中二病的な思考は、自分の夢を恥ずかしげもなく語り、自分を特別だと思い込み、他者を否定してでも理想の世界を実現しようとする心のはたらきだと思うんです。

中二病を発症するのが13〜18歳あたりであることからも、これは肥大化したエゴが主となって起こる認知のゆがみだと推測されます。

 

実際、青年期の課題である「アイデンティティの確立」を為すためには、一度この肥大化したエゴと向き合わなければなりません。

通過儀礼と言ってしまえばそれで終わりですが、僕らは今一度この「中二病的思考」と真剣に向き合わなければならないと思います。

なぜならこの思考こそ、自分と世界をより良い場所へ導く何より強固な指針だからです。

 

中二病的思考が僕らに教えてくれること

中二病的思考を捨てずにいるのは非常に苦しいものです。

かめはめ波は出せないし、スタンドは居ないし、世界を救う役目だって僕らには回ってきません。

 

いつの日か、僕らは自分が主人公ではないと気づいてしまうんです。

 

ある人は学校の片隅で愛想笑いを浮かべている時に。

ある人は入社した会社で上司に叱責された時に。

ある人は自分の努力が水泡に帰して無力感に苛まれた時に。

 

現実はいともたやすく僕らが縋っていた中二病的な幻想を打ち砕いていきます。

あざ笑いながら、水槽の中で泳ぐ金魚を驚かすくらいの気軽さで、風雨に晒されながら必死に守ってきた灯火を吹き消していくのです。

 

それでも、僕らは主人公であり続けようとします。歯を食いしばって、目を見開いて前を向きます。

でもそれが難しい方だって一定数いらっしゃいます。

為す術もなく打ちひしがれて、自分は脇役だったと見せつけられて、嫉妬や羨望を超えた先で無感動の暗闇に堕ちていく人が跡を絶ちません。

それはなぜか。

自分の中にあったはずの「厨二病的思考」を、誰より自分が「恥ずかしいもの」だと決めつけてしまっているからです。

 

それこそが、あなたが主人公の座に駆け上がるために渡されていたチケットだったのにも関わらず、恥ずかしいものだと思いこんで破り捨ててしまっています。

 

僕らが自分らしく、楽しく強かに生きるためにはそのチケットが必要になるでしょう。

 

なぜなら、そのチケットは僕らが何の主人公で、どんなシナリオを望み、誰を救い、どのように幸せになりたいか、を全て記した生き方のバイブルとしての役割も果たしているからです。

 

厨二病的思考はなぜ「恥ずかしい」ものなのか

こうしてみると、中二病的な思考はまったくもって恥ずかしいものではありません。

かめはめ波だってスタンドだってカッコいいものです、流石に20歳を超えて「異能力で悪いヤツを倒したい」と素面で叫ぶ人はどうかしていますが、その根底には「世界を救いたい」という思いや「カッコいい自分でありたい」というヒーロー的な思考が見え隠れしています。

 

ヒーローになりたい、という思考は本当に悪いものなのでしょうか。

どうにも腑に落ちませんね、少し視点を変えて見ましょう。

 

ドラゴンボールに登場する「ヤムチャ」は今なお悲惨なキャラクターとしてネタにされるくらいに可哀想な男です。

サイバイマンの自爆に巻き込まれたり、ブルマに振られたりとなかなかえげつない立ち位置にいる彼の目から見ると、悟空はどのような存在に映っているのでしょう。

 

幼少期から長い付き合いだった悟空がたくさんの仲間と世界を救うために戦うなか、彼は戦闘員としてのメンバーから外され、亀仙人と同様に観戦するポジションへと回されてしまいました。

ポッと出のベジータなんかよりもずっとずっと長い付き合いなのに、悟空がアテにしているのは完全にベジータです。

ムカつくでしょう。嫉妬するでしょう。自分の無力さを嘆いて枕を濡らすでしょう。

Zメンバーが出てくるまでの間、彼は繰気弾狼牙風風拳といった必殺技を用いてたくさんの敵を葬ってきたのに、いつの日にか主要メンバーの座を奪われたのですから。

 

僕らはいつでも悟空に憧れます。

ピンチのときに駆けつけて世界を救い、いつでも仲間に頼られて、激闘の末に強敵を制して最終的には認め合える。

でも、悟空はたったひとりしか居ないのです。

 

現実世界はもっとムゴい。

空も飛べないし、かめはめ波も打てないなかで僕らは悟空のようなカッコいいヒーローになることを夢見ているのです。

ヒーローになるために僕らができることは限られます。

学生時代は学校が戦場なので勉強や部活しかありませんし、大人になれば職場が戦場になるので仕事に打ち込むしかありません。

どうしたってパッとしないし、生まれ持った素質や生育環境による差も大きく影響します。

そんな中で僕らがずっとヒーローで居られるわけもありません。

ヒーローであろうと思えば思うほど現実の自分が惨めに思えて、いつしか「ヒーローになりたい」という欲望にさえ蓋をしてしまうでしょう。

ヤムチャもいつの日か自分の力不足を実感して、嫉妬や羨望の先で諦めを選んだのではないでしょうか。

そして

 

「ヒーローになりたい」

という純粋な熱意が歪められていくと

 

「ヒーローなんて居ない、目指しているやつはガキだ、恥ずかしい」

という否定の言葉に変わっていきます。

こうした心のはたらきはいくつかありますが、まとめて「防衛機制」と呼びます。

 

ヒーローを目指す熱と、ヒーローの卵を嘲笑おうとするゾンビ

このように、無意識のうちに心を守ろうとして壁を作ると、もう見るのも嫌になってしまうでしょう。

だから、自分が昔に諦めたものを本気で目指している人を見ると、とても苦しくなってしまいます。

ときには攻撃したり、嘲笑ったりといった防衛行動を取ることもあるでしょう。

これが中二病的思考が社会から隔絶されている理由です。

 

つまり、「中二病は恥ずかしいものだ」という考えを抱いた人は、とうの昔にヒーローになることを諦めてしまった人と言えます。

そして諦めてしまった人は、自分がもう一度「ヒーローになりたい」と強く願うまで、ヒーローを目指す方を冷ややかな目で見続けることになるのです。

諦めてしまった人は、暗闇の底から手を伸ばして引きずり込もうとするゾンビによく似ています。

 

ゾンビの冷気とヒーローの卵が持つ熱気は伝播し合う

ゾンビの何が厄介かといえば、その冷めた視線や刺すような言葉がヒーローの卵の持つ熱意を冷ましてしまう、という点です。

 

「お前、いい加減オトナになれよ」

「夢ばっか言ってないで現実生きたら?」

「叶うわけないでしょ、そんな夢」

 

様々な角度から放たれる呪詛は、計算され尽くしたストライカーが放つシュートのようにやすやすとゴールへ滑り込み、ヒーローの卵の心をぐちゃぐちゃに支配します。

彼らのずるいところは、「正論」を盾に自分の意見を放つところです。

意見と意見のぶつかり合いであれば、まだ話し合う余地もあるでしょう。

しかし、正論をぶつけるだけの彼らとはそもそも会話ができません。批判して、足を引っ張りたいだけなのですから、正直なところ「話すだけムダ」なのです。

 

そこまで分かっていても、ヒーローの卵は放たれた呪詛をかわしきることができません。

そしてヒーローになる前に倒れてしまい、いつの間にか呪詛を吐き散らすゾンビへと成り果ててしまうのでしょう。

ゾンビの持つ冷気は必ず伝播します。どれほど強い熱量を持つ相手に対しても、です。

 

対して、ヒーローの卵やヒーローが持つ熱もゾンビたちには強く響きます。

それもそのはず、彼ら彼女らも、元々はヒーローの卵だったのですから。

ただ、ヒーローの熱があまりにまっすぐで、純粋すぎて、上手く受け取ることができないかもしれません。

自分たちが願ってもがいた先で叶えられなかった希望を手にした人間が吐く言葉なんて、素直に聞き入れられるはずもないでしょう。

 

「諦めずにやれば夢は叶うよ」

「世界を良くするために自分の目標を考えてみようよ」

「自分のことを嫌いにならないでよ」

 

このような言葉は眩しすぎて、長くゾンビとして生きてきた人にとっては、きっと上手く受け取れないでしょう。

しかし、それは強い執着となり、ゾンビたちに対して強く響きます。

ヒーローの持つ熱もまた、ゾンビに対して伝播している、と言えるでしょう。

 

同年代で夢を語り合える仲間がいることの幸せ

急にどうしてこんなことを書き始めたのか説明します。

僕が住むシェアハウスにはモデルとして活躍している女の子が住んでいるのですが、普段はおちゃらけている彼女が時折見せる「熱さ」に感動したためです。

 

自分の本心を見せることを極度に恐れる彼女は、やはり自分の熱量についても隠したがります。

そんな彼女とは、よく「フリーランス」という共通点もあり仕事のことを話し合うのです。

仕事のことを話す彼女はどこか臆病で、自信を持ちきれない謙虚さを讃えています。

そして一皮めくれば、死力を尽くして「よく生きる」ために命を燃やさんとする膨大な熱量を感じるのです。

その熱量はどこか懐かしく感じるものでした。僕が生活保護家庭から抜け出す際に振り絞って出した熱量と、よく似ているのです。

 

それをどうしようもなく心地よく感じるのはなぜか。

きっと僕は強い自分が大好きだった、ヒーローであるという自負があったんだと思います。

自分の環境をひとしきり嘆いて、ボロボロに打ちのめされて、それでもなお立ち上がる自分の姿に、世界一惚れ込んでいました。

だから、自分と似たような熱を持つ人を見ると、僕は涙が出そうなほど嬉しくなって、何が何でも力になりたいと願うのでしょう。

 

この人の火がいつまでも燃え盛っているような世界であってほしい。

この人なら、あらゆるゾンビに熱を与えて、ヒーローの卵を奮い立たせて、同じようなヒーローの横でさらに熱く生きていけるだろうと思うのです。

 

僕はまだまだヒーローの卵ですが、孵化できるように熱を放出していこうかなと考えています。

とはいえ、僕の理想はパッと見は冷たいのに中が熱い「粋」な男なので、表面的な変化はないと思いますが。

 

最後に、僕が最近聴いた曲の中で最も中二病を爆発させているUVERworldの「Q.E.D」から、大好きな歌詞を抜粋して紹介します。

 

俺達はそう・・・もうガキじゃない

でもつまらない大人になる気がないなら

無謀な夢叶えて言ってやるよ

此処に希望はまだある

俺達にだってまだある

 

その理想郷へ行こうぜ

本当の笑顔失うな

どこまでも行こう諦め悪く

最低で最高な俺達でいよう 

 

思えば、彼女は「人が自由に生きる世界」を望んでいました。

環境や生き方、体型、職業、人種といった壁を超越して、誰もが自由に楽しく生きていける世界があればいいのに、と。

彼女はその世界を作らなければなりません。そして、その世界に行くことで救われた人たちから、ヒーローとして羨望を集めるのです。

 

無謀な夢を叶えた先で、理想郷の中で、彼女は本当の笑顔で笑うのでしょう。

そして、次のヒーローの卵へ「此処に希望はまだある」と、その生き様で語るのでしょう。

熱意は消えない灯火となって他者へ伝播していき、ヒーローが消えることはきっとありません。

 

ところで、僕も少し前まではとてつもない熱さの炎を抱えて生きていました。

でも僕の炎はきっと歪な形をしていたから、いろいろな人を傷つけて、自分を鼓舞するためだけにゴウゴウと燃え盛っていたので、一度消しました。

 

それが最近、優しく、しかし確かに灯り始めたのです。きっと回りにいる人が少しずつ火を分け与えてくれたおかげです。

この火を使って、今度は僕も彼女のように誰かを温めたり、火を移したりできればと思います。

僕はこの先もずっと”最低で最高な人間”として、いつまでも中二病的思考が抜けないやつとして、胸を張って生きていきたいと思うのです。

僕が理想とする 「優しい世界」を実現するためにも、僕は今度こそ、本物のヒーローにならなくちゃいけないのです。

星に願いを

ふわとろ。

ライターとして文章を書くようになって、そろそろ8ヶ月が経ちます。

そろそろ「駆け出し」という言い訳が使えなくなるんじゃないかとヒヤヒヤの一身上の都合です。

 

最近は、初めて文章でお金をもらった日のことを思い出します。

何もかもが上手くいかないような気がして、どうして自分だけ取り残されているんだろうって焦って、まわりを妬んでばかりいました。

 

そんな折、ライティングの「ラ」の字すら分からなかった僕を褒めて伸ばしてくれた、恩人とも呼べるクライアント様と出会いました。

文章は稚拙、書きたいことを書いて、クライアントの意向は二の次。

ライターの風上にも置けない僕を見て、その方は叱るどころか褒めてくれました。

 

「無個性のライターさんとは違って、すごく素質があると思います」

 

その言葉は当時の僕にとって、たった一つの希望でした。

文章しか残されていない、と感じた僕は狂ったようにライター業に打ち込み、構成の作り方やSEOのイロハを学んでいきました。

 

そして8ヶ月が経った今は、上場企業から継続案件をいただけるようになり、興味のある分野で執筆することも可能になりました。

ようやく経営が軌道に乗った、という感覚です。

正直、心の底からホッとしました。

だけど、このまま安心できるほど僕は楽観的ではないし、自分の力を過信できるほど世の中を舐めてもいません。

 

ぽっと出の若造がライターとして生きていくのは、そう簡単な話ではないのです。

 

毎日、不安と戦っています。

毎日、自分と戦っています。

毎日、それらに勝っています。

だから、今も息をしています。

そして、絶えず夢を描いています。

 

止まれば社会に呑まれてしまう、フリーランスという小舟の舵を切るには、前に進み続ける推進力が必要です。

その推進力になりうるものがあるとすれば、大きく二つでしょう。

それは「恐れ」と「希望」です。

僕はいつも「恐れ」で前へ進んできました。

このままここにいたら死んでしまう、自分の価値がなくなってしまう、と自分を追い詰めて歩んできました。

正直、何度も生きるのが嫌になったし、何で生きているのか分からずに涙する夜も数え切れないほど超えてきました。

 

その上で、僕はこれまでとは異なる推進力を手にしました。

「希望」です。

自分は生涯を通してなにを実現したいのか、僕の目が黒いうちに何を成して、死ぬときどんな世界で息を引き取りたいのか。

それらを突き詰めて、希望を具現化してみると、驚くべき効果を発揮し始めたのです。

やりたいことが見えてくると、この先やるべきことも明確になり、長期・短期目標がわかるようになりました。

 

日々の仕事にも熱が入るようになり、やるべきこととやりたいことを取捨選択できるようになりました。

 

本当に大切なものが見つかれば、人は愚直に、少しずつでも前へ進むことができる。

 

でも、その結果として何かを失ってしまうこともあるのでしょう。

それは苦しいことですが、決して悲しいことではありません。

 

捨てたものが大きければ大きいほど、対価として得る結果の輝きはひときわ大きくなります。

僕はその輝きこそが、何より美しい「希望」の姿だと思うのです。

 

何かを捨てなければ到達できない、だからこそ価値があるのではないでしょうか。

 

希望という言葉には、ひどく残酷な意味が含まれています。

希望を胸に抱いた者はその希望に憧れを抱き、狂おしいほどに心と身体をかき乱されるでしょう。

希望とは、言い方を変えれば「譲れないたった一つの光」であり、希望を抱いた者はそれを手にするためになりふり構わずもがくことになるでしょう。

他の全てを捨ててでも「その光に縋るのだ」という覚悟を、僕たちは希望と呼ぶのでしょう。

 

僕がさいきん胸に抱いた希望はきっと、幼い日に流れ星へ願ったものと変わりません。

 

あの夜、僕は母に連れられて、酒に酔って暴れる父から逃げるように外へ出ました。

「夜空を見に行こう」と母は僕に笑顔を向けて、手を引いてくれたのです。

 

僕らが住んでいたのは山奥の集落だったから、最小限の灯りしかありません。

自分の足元すら覚束ない暗闇のなかで、僕はただただ不安を感じていました。

宵闇が怖かったわけではありません。

家に帰れば激昂した父がいて、また母が殴られるのだと思うと、もういっそ殺してほしいとさえ思っていました。

 

この世界に救いなんてないし、死ぬまで恐れと共に生きるのだと、それが普通なのだと、心から思っていたのです。でも、そんな僕の不安などつゆ知らず、見上げた夜空には視界を埋め尽くすほどの星が瞬いていました。

 

ドラマのようですが、その夜は流星群の夜でした。

流れ星がつぅ、と視界を横切ったとき、母が僕の隣で言ったのです。

 

「3回お願い事を言うと叶うから、何かお願いしてごらん」

 

DV被害の真っ只中にいながら、僕の母はそう口にしたのです。

今の僕には、その言葉がどれだけの願いを含んでいたのか痛いほど分かります。たった一言に乗せるにはあまりに重すぎる願いを、それでも言葉は僕の耳へ、心へ運びきったのでした。

当時の僕はそこまで理解できておらず、ただ愚直に、思いついた願いを口にしました。

 

「お兄ちゃんと、家族みんなで暮らしたい」

 

僕は、心の底から、大真面目に、たったこれだけの願いを3回唱えました。取るに足らないことだと笑われるかもしれません。

 

それでも、たったこれだけの願いすら自力で叶えられない無力な存在は、星に願うほかないのです。今、この瞬間も、この国のどこかで星を見上げて、あの夜の僕と同じように祈っている誰かが居るのかもしれない。

 

僕はそれがたまらなく苦しくて、想像するだけでもどかしく感じます。

 

あの夜、僕はきっと「優しい世界になりますように」とお願いしたかった。

3歳の語彙だから、もっと個人的な表現になってしまったけれど、きっと僕はそう願っていた。

 

救いのない世界をずっと見てきた。

 

海外へボランティアに行く温室育ちの奴らを見て反吐が出た。

「救う」ことを軽視する人間がたまらなく嫌いだった。

だってあの夜、僕の願いは誰にも届かず、帰った母は父親に殴られ続けたのだから。

僕は殴られるのが怖くて、隣の部屋で一人泣きながら眠ったのだから。

祈りも願いも父の拳にへし折られて、誰も僕を救ってなどくれなかったのだから。

 

だから僕の願いは、あの夜から何も変わらないのです。

 

「優しい世界でありますように」

 

おとぎ話のような願いを、22歳になった今も星を見るたびに掲げ続ける僕は愚かでしょうか。

中二病だと揶揄されるでしょうか。

悲劇のヒロインぶっていると嘲られるでしょうか。

それでも構わないと思う僕は、頭がイカれた偽善者なのでしょうか。

 

たとえ笑われても、僕だけは知っているのです。

あの夜の絶望を。あの日々の苦しみを。

 

だから僕は誰より優しくありたい。

世界を丸ごと変えられたら楽だけれど、きっとそうはいかない。

 

なら、この両手が届く範囲くらいは優しい世界にしてみせる。

僕の希望は、それだけです。

 

そしてそれを叶えるために、僕は居場所を作りたいと思いました。

 

シェアハウスには、それを叶えるだけの力があります。

僕が暮らしているシェアハウスは、僕が自由に羽を伸ばせる居場所になってくれました。

 

僕は、僕の描く「優しい世界」を作るために、シェアハウスを始めたいと考えています。

 

はじめのころ、僕は「言葉を介して心を癒したい」と志しながらライティングしていました。

 

しかし、悲しいかなWebライターの実情は、それほど優しくはありません。

SEO上位に記事を食い込ませるために記事を書くと、どうしても伝えたいことが削られたり、異なる表現方法に変えたりする必要があるのです。それなら、ライター業という箱のなかでは僕の願いは叶えらえそうにない。そう思って、別の道へ舵を切りたいと思うようになりました。

 

2020年の初夏を目処に、僕は新たな舞台へ踏み出そうと思います。ライター業という枠組みにとらわれず、社会という大海原へ笹船のような小さな船を浮かべて、漕ぎ出すのです。おなじ志を持った仲間とともに、願いを叶えたいと思うのです。

あの夜、3歳の僕が星へ預けておいた幼稚な願いを、22歳の僕が受け取り、大真面目に叶えるのです。

 

そこまでして、ようやくあの日の僕は笑えるのでしょう。

過去のために生きるのではなく、過去から未来へつなぐために、僕は今いちど過去と向き合いました。

 

僕は今でも、きっとあの夜の願いを叶えるために生きているのです。

優しい世界で笑って過ごすために、僕はもう少しだけ、自分の道の先へ進もうと思います。

自分のことがわからなくなったのでトイレで自問自答していたらラブレターを書きたくなった話

突然だけど、俺の住むシェアハウスにはJKの女の子が住んでいる。


彼女は母子家庭で育っていて、軽くネグレクトを受けているように見えた。
彼女と仲良くなるにつれて、冷めきっている心の中が読み取れるようになった。

 

この間、俺は彼女から「外で話したい」と相談を受けた。

 

10代が抱えていることなんて、他愛もない話だと思った。
甘い考えを浮かべる俺の頭蓋を揺さぶるように、彼女は重々しく口を開くと、ぽつりぽつりと話し始める。

聞き終わったとき、正直、俺は何も言えなくなっていた。

 

全てが俺と似ていた。

 

泣きながら話す目の前の少女は、17歳の俺だ。
そう思った。

 

それくらい、感じていることや世界への立ち居振る舞いが似通っていたから、俺は動揺を隠すのに苦労した。
他人事なら、上手く話せるのに。


俺が過去の自分へ向けて放つ言葉はいつもどこか無機質な冷たさを孕んでいる。

「それは上手くないやり方だろう」

「間違っていると分かっていてなおそのスタイルを貫くのか」

「知ったような口を利いて、恥ずかしくないのか」

といった具合に。

 

だから、きっと俺は彼女にとって優しくない言葉をかけてしまったんだと思う。

 

端的に言えば、彼女の生き方を否定した。


彼女はそうするしかなかった。
ほかに生き抜く術がないからと、彼女が泣く泣く汚したその心の汚さや脆さを責めたんじゃないかと思う。

 

俺はたぶん、彼女にとってようやく出会えた「まともな大人」のひとりだったんだろう。

正直、その自負はあった。


俺はいつも彼女にとって最高に耳障りの良い言葉と声音で話すよう心がけていた。傷ついているのが目に見えていたから、痛まない温度を心がけて関わった。それは苦じゃなく、むしろ俺もそうしたいと望んでいたことだった。

無意識のうちに、17歳の自分と彼女を重ねていたんだろう。

俺は彼女を通して、自分に優しくしていたのかもしれない。


そう思う理由のひとつは、俺と彼女が世界と関わるときに取るスタンスが、ひどく似通っていたこと。

もうひとつは、それ故に彼女の心の流れがひどく鮮明に理解できること。

俺はきっと、彼女に自分を投影していた。

 

唯一、俺と彼女の相違点を挙げるとすれば、悲しみや苦しみから逃げずに言葉にし続けてきた経験の数だ。
俺は、もうそれしかやってこなかった。
ほかに方法がなかったものだから、狂ったように言葉を扱ってきた。

 

彼女はひとしきり泣いたあと家に帰ると、もういちど涙を流した。

嗚咽と涙で感情がごちゃまぜになりながら、この世で最も温かい言葉を口にした。

 

「私が頑張れば、お母さんの負担を減らせるんじゃないかって」

 

これだけの風雨にさらされながら、冷え切った心と身体で、なお母親からの愛を求めていた。

狂気と言わずに、なんと表現すれば良いのかわからない。
俺にはそれが、ひどく美しい人間の姿に見えたし、その実おぞましい呪いに苦しむ囚人のようにも見えた。

 

何も言うべきじゃないのかもしれない。
俺だって、まだ答えが出せたわけじゃないのだから。

 

 

先日、母親が酒を飲みすぎて倒れていた、と聞いた。


猛暑のなか、水分を摂らずに酒だけを飲んでいたせいで脱水症状を起こし、倒れる。

そんなことは以前から何度かあった。

その度に俺は「死にたいの?」と怒っていた。
本当は「死なないで」と言いたいのにもかかわらず。

 

ああ、俺は彼女となんら変わらない。

そう思った。

 

母親からの愛情を誰より欲していて、父親からの安心感を狂おしいほど探している。
もうきっとどこにもないものを、記憶の中や今や未来に探し続けている。

 

なんて滑稽で、理不尽なやつだろう。

でも、一つだけ気づいたことがある。

 

俺は、もしかしたら彼女もまた、何も終わっちゃいないということ。


なぜなら俺も、もしかしたら彼女も、人に愛されることを強く望んでいながら、他者を愛したことがなかったのだから。


好きなものを所有しようとしていた。

離れていかないよう、抱きしめて離さないよう万力を込めていた。

壊してしまうことが何度もあった。それでもやめられなかった。

それが愛だと勘違いしていた。

 

母親に対してもそうだった。


俺は母親に対して「死なないで」と言いたかった。


それは母親の命に所有欲が湧いている証拠だった。
本当の愛は、きっと、もっと残酷で儚いものだと思う。

 

「死にたいのなら死ねばいい。でも、あなたが死んだら俺は悲しい」
それだけで、たぶん愛は完成していた。

離れていかないように抱きしめる必要なんて、ハナからなかったのだ。

 

俺は母親が死んだら涙が枯れるほど泣くのだろう。

生まれて初めて俺を愛してくれた人であり、生まれて初めて俺が愛そうとした人であり、そして生まれて初めて俺が尊敬した人間だからだ。


正しくない母親だったけど、世界の不条理を目の当たりにしながらも正しく生きようとする強さを備えた人だった。


この歳になって痛感する。

俺はあの人の息子だ。

だから、これからも正しく、強く、誠実であろうと思うのだろう。

紛れもなく、これは母親から受け継いだ魂だ。


今の母親にその気高さはない。

見る影もなく変わってしまった彼女は、自死すら厭わないほどに弱っている。

長い風雨にさらされて、もう余力がないのかもしれない。

 

それでも、まだ覚えている。

朝方、夜勤明けに帰宅した母親と缶チューハイで乾杯したあの朝のことを。

 

介護施設で、非正規雇用であるにもかかわらず正社員よりも懸命に働いていた母親は、ある日「お金のために夜勤のシフトに入る」と告げた。身体的にも精神的にも余裕なんてなかったはずなのに、彼女は迷うそぶりも見せず俺と兄に言い放った。

当時、俺は小学校低学年、兄は高校生になりたてだった。

 

夜勤を始めた母親は生活リズムが逆転し、俺や兄と過ごす時間を削らざるを得なくなった。そうなることを、理解はしていた。納得をしていたかは、分からない。

 

夜のほうが時給が高いこと。

俺の父親からの養育費が少ないこと。

兄が高校に行った時点で家計が苦しくなったこと。

母親が夜勤だけはしたくないと最後まで葛藤していたこと。

 

母親が夜勤をはじめてから少し経ったころ、俺は生まれて初めて初詣以外の日に徹夜をした。

眠れなくて、テレビショッピングを見ているうちに空が明るみ始めて、眠ることを諦めてからは時計を眺めて母親の帰宅を待ち望んだ。

母親は静かにドアを開けて、俺と兄を起こさないように帰宅したけれど、すぐに台所で座っている俺に気づいて、驚きながら形だけの説教をした。

その表情が柔らかくて、全く怒っていないことは、すぐに分かった。

 

母親は、帰宅すると決まってマイルドセブンに火を着ける。

タバコを吸いながら、俺に甘ったるい缶チューハイを手渡して、言った。

「ごめんね、一緒に過ごす時間が取れなくて」

「大丈夫だよ、俺も家のこともできるだけ協力するし」
そんな会話をした。それだけで、言葉にしていない何千、何万という情報が酌み交わされた気がする。カシスオレンジの香りはどこか切なくて、とろけるような口当たりが俺と母親の無常を夜に溶かした。


結局、俺はその日の学校をサボり、母親は泥のように眠った。
兄は遅刻ギリギリで高校へ向かった…と思う。

 

正しい家庭ではなかったと思う。


母親からの愛情を受け取れなくて、受け取りたくて、背伸びして、大人のフリをして。

「頑張っているね」と認めてもらうことで、その言葉を愛に代えようとしていた。


俺はあの日からずっと変わらない。


母親から「愛しているよ」と言われる日を、待ち望んでいる。

 

そのために、俺は誰より金を稼がなきゃならない。
誰より力を手に入れて、家族をあるべき姿に正さなきゃならない。
もう一度家族を始めなければならない。


そうしてようやく、あの朝、缶チューハイとともに飲み込んだ言葉を供養できるのだと思う。

 

 

 

 

大人にならなくちゃ子供に戻れない人間は、きっと少なくないのだと思う。俺がそうであるように。


年齢の割に大人びている理由や、誰より人に気を使う理由はそこにある。

ずっと大人の真似をしてきたんだ。上手いに決まってる。


でも、俺は子供になりたい。きっと俺の前で涙を流した彼女も、同じ感傷を抱えて、生乾きの傷を持て余したまま夜を超えている。

俺は、あの朝にカシスオレンジと一緒に飲み込んでしまった言葉を素直に吐きたかった。ただそれだけが、俺の求める全てだった。

 

 

そんなことを考えていたら、無性にラブレターを書きたくなった。

思い返せばラブレターをもらうことは多かったけれど、あげた経験は少ない。

でも、書いてみると意外に面白いものだった。

どれだけ言葉を尽くしても、「愛している」に勝る言葉なんてこの世には存在しないことを、ひしひしと感じる時間だった。言語はシンプルなものほど心に刺さる。そもそも合格した覚えもあまりないけれど、いよいよ本格的にライター失格かもしれないな。

 

 

生まれながらに子供でいられた人へ。


どうか俺のことを軽蔑しないでほしい。
俺は決して悲劇のヒロインなんかじゃない。悲劇のヒーローに憧れたのも、もう昔の話だ。
本心を言えば、ただ素直に「愛して」と言いたい。
それが言えなくて、こんな回りくどい22年を過ごしたバカがいることを、ただ、認めてほしい。

「愛してよ」「愛してる」と言えるあなたに憧れて、一方的に憎むことも多かった。

ただの逆恨みだ。許してとは言わない。

言い訳するつもりも、俺の人生が言い訳になるとも思っていない……嘘だ、本当はちょっとだけ思っているけれど。

それでも、俺のこれまでの行い全てを棚に上げて、あなたに言葉を贈るとしたら、俺は「認めてほしい」としか言えない。

ただ、隣り合って笑いたかった。

否定せず、同情もせず、俺のことを見て好いて欲しかった。

もしかしたら、あなたのことを認めずにいたのは俺の方かもしれないけれど。

それでも、もし、もう一度やり直せるのなら、俺はあなたや世界と手を繋いで、光の中で生きていきたいと願っている。

 

 

俺を優秀だと評価してくれる人へ。


正しい道でなくとも、その過程で傷つきながら身につけた武器を褒めてもらえると、泣きそうになるほど嬉しい。

生きてきたことは間違いじゃなかったと、そんな風に思えてしまう。

きっとこれは歪な自信だ。そう分かっていながら、いつもどんな顔をしていいのかわからなくなるくらいにむず痒い幸福に襲われる。


ここだけの話、本当は優秀になんてならなくてよかった。

俺は別に、強くならなくてよかった。

望んで手に入れた能力なんて、きっとひとつも存在しなかった。

でも、愛されるにはこうするしかなかったんだ。

俺の人生はずっとそんな風に歪で、帳尻を合わせながらなんとかやってきた。

そうしたら、あなたに出会えた。

俺の歪さを認めてくれて、あまつさえそれを魅力だと言ってくれてありがとう。

 

 

愛してると伝えてくれた人へ。


あなたには想像もできないほど、俺はその言葉を渇望していた。

望みすぎて、手に入らないことが悔しすぎて、あなたを含めた世界全てを憎んでしまうほどに。

イソップ童話の「酸っぱい葡萄」に例えれば、この世にある全ての葡萄を根絶やしにするために強くなった狐、それが俺だと思ってもらいたい。

 

でも俺は臆病で、それ故に愚かだった。

万力で抱きしめて、あなたが離れていかないように、必死だった。

もう手の中に握ったあなたが「あなただったもの」に変わり果ててしまったことにすら気づかないほど。

 

それでも、それでも俺の腕の中に残ったあなたは、最後にかけがえのないものをくれた。

はなればなれの人生を送ろうと、どれだけ変化を遂げたとしても、一緒に生きた時間は間違いなくお互いの人生に息づいていること。

それが人が抱く普遍の感情、愛の残り香であること。

つまり俺とあなたは、互いに原型がなくなるほどに傷つけ合いながらも愛しあっていたということ。

皮肉にも、俺はあなたを愛する前に「ヤマアラシのジレンマ」について話したけれど、それでいうなら俺とあなたは互いの針を深く刺しすぎた。

俺の心はあなたの針で絶命したし、あなたの心も俺の針で絶命した。

 

今になって思えば、精神的な死を迎えられたことを感謝している。

俺はもともと、この世界が気持ち悪くて仕方なかった。

それでも、今は、あなたのような人が生まれた世界を、愛しています。

 

 

たった二人の家族へ。


死んでほしくない。

何があっても、生きていてほしい。


これは俺の所有欲だ。

 

俺が愛を渇望すればするほど、あなたたちに死なれることが怖くなる。

知らないだろうが、あなた達のようなアウトローはどこかでなにか間違えれば簡単に死ぬんだ。

運良く生き延びているだけだから、俺はずっと気が気じゃない。

でも俺も同じことをあなた達から言われるんだから、まぁ、似た者同士なのかもしれない。


今なら、「死なないで」とは違う、新しい言葉が扱えるんじゃないかと思う。


もし、あなたたちが死んでも。

どのように生きていても。

俺はずっと愛している。心の底から。

だから、俺を愛してくれたら、きっと死ぬほど嬉しいよ。

 

そんな日がいつか来ることを夢見て、もう少し頑張ってみようかなって思う。

もちろん、あなたたちのためだけじゃない。

 

他の誰でもない俺、

俺が愛している人。

将来、俺を愛してくれる人。

過去、俺を愛してくれた人。

 

少なくともそれくらいは抱えられるように、生きてみたいんだよね。

幸せになりたいならコレを読め!幸福ホルモン「セロトニン」のはたらきや増やし方を紹介

aikyatti

あなたは足りてますか、セロトニン

きっと僕には足りていません。

なぜなら、日々の中で幸せや満足感を感じられないからです。

 

あと、生活リズムが狂っているので朝日を浴びる機会が少なく、体内でセロトニンを作れていないだろうなって思うから。

 

セロトニンってなんじゃらほい」という人のために説明すると、セロトニンは脳内ではたらく神経伝達物質シナプス間で情報をやりとりする意識の運び屋的な存在)の一種です。

 

代表的な神経伝達物質の例としてはアドレナリンが挙げられます。

 

 

アドレナリンは心拍数や血中の糖分濃度を上げる作用があり、ストレスに対抗できるように体内の環境を変化させる働きを持っています。

 

このように、神経伝達物質は「身体の調子を変化させる」役割を持っているんですが、セロトニンは「人体を幸福にする」という超大役を担っているのです。

セロトニン以外でこんなフェイトを背負えるのは、アンパンマン鉄腕アトムくらいでしょう。

 

ああ、待ってください。

「幸福」とか言ってますが、別にヤバい宗教やエセ科学じゃありません。

セロトニンは本当にあなたの人生を幸福にしてくれる(かもしれない)んです。

 

僕がこれから話すのは眉唾の情報でも希望的観測に満ちた自己啓発でもありません。

現代医学の見解に基づいた、至極まっとうな「幸せに生きるためのヒント」です。

 

まずはセロトニンがどのような働きをするのか、ざっくりと見ていきましょう。

 

セロトニンは自律神経に働きかける神経伝達物質

まず、冒頭で説明したようにセロトニンは人の幸福に直結した神経伝達物質です。

セロトニンは「自律神経のバランスを整える」ことで、間接的に人間を幸福にしてくれます。

 

ヒトの生理現象(動機や体温、瞳孔など)を変容させているのは、自律神経と呼ばれる神経です。

この自律神経は、身体を活性化させる交感神経、鎮静化させる副交感神経、というように大きく2種類に分かれます。

 

徹夜明けで「アドレナリンが出まくってるわ」という人はずっと交感神経が優位の状況にあるので、信じられないくらいに元気です。

寝なくても平気だし、テンションも高くなります。

何もその人が並外れた体力を持っているというわけではなく、交感神経が優位だから「ずっと身体が活性化している」状態なのです。

 

「ずっと元気でいられるならそれは幸せなんじゃないの?」と思う方もいるでしょう。

しかし、それは大きな間違いです。

身体がずっと活性化したままでは、いずれエネルギーは枯渇して様々な弊害が生じてしまうでしょう。

 

「ずっと元気」な人が陥る致命的なワナ

学生時代、「寝ると逆に疲れる」という友人がいました。

結論からいうと彼は「ずっと疲れている」状態にいたのです。

 

眠ることで副交感神経が優位になり、これまで交感神経が無理をして保っていた身体に本来の疲れがどっと押し寄せてくるので「眠ったせいで疲れた」と錯覚していたのでしょう。

もともと、身体はそれだけ無理をしていたのです。

医療法人仁木会はこの状況を「身体の緊急事態」と称して以下のように説明しています。

 

この身体の緊急状態は短時間しか持ちません。これが長く続と、当然体は消耗します。むりして早く動かしていた心臓に、心臓疾患を引き起こしたり、脳は興奮しているため、不眠症となったり、頭痛が出現したり、胃潰瘍や肩こりなど様々な不都合な状態が引き起こされます。

引用:http://niki-hp.or.jp/stress1.html

 ずっとフルスロットルで走れる車が無いように、ずっと無理をできるヒトの身体もありません。

休息をとってリラックスし、副交感神経を優位にする時間が必要なのです。

副交感神経を優位にすることで、体内の様々な機能が沈静化します。

唾液の分泌が抑えられたり、心拍数が穏やかになったりという変化が起きるのです。

いわば身体が「今は無理しなくていいや」と省エネモードに切り替わった状態であり、身体はこの期間に次の緊急事態に備えて体力を蓄えます。

 

ここでセロトニンの重要性が際立つのです。

セロトニンは副交感神経を優位にさせるだけでなく、痛みを和らげ、意識をはっきりと覚醒させます。

同時に、精神を安定させる働きも持っているので、巷では「幸福ホルモン」と呼ばれることもしばしば。

忙しない現代人には特に欠かせないものなのです。

 

セロトニンの分泌で身体に起こる良い変化とは

セロトニンが多く分泌されると以下のようなメリットがあります。

 

セロトニンには、脳の大脳皮質という部分に働き、起きている時にスッキリした意識にさせる・朝起きる時、体を活動する状態にさせる・痛みの感覚を抑制させる・抗重力筋に働きかける、など様々な働きがあります。

引用:https://www.lab.toho-u.ac.jp/med/omori/kensa/column/column20141027.html 

 逆に、セロトニンが減少すると、以下のようなデメリットが生じます。

寝起きが悪くなったり、些細なことで痛みを感じやすくなります。また、抗重力筋は重力に対して姿勢を保つために働くまぶたや首や背中などの筋肉のことであり、セロトニンが不足すると背中が丸まったり、どんよりとした表情になってしまいます

引用:https://www.lab.toho-u.ac.jp/med/omori/kensa/column/column20141027.html

 まるでいいことがありません。

ここまでくるとどうして水素水がバカ売れするのにセロトニンが売られていないのか不思議になるレベル。

 

 まだまだある、セロトニンが及ぼす人体への影響

さらに、セロトニンは2008年には100万人以上が罹患しているともいわれている「うつ病」とも深い関わりを持っています。

厚生労働省のうつ病データによると、

このようなタイプのうつ病では、セロトニンノルアドレナリンなどの脳内の神経伝達物質の働きが悪くなっていると推測されています。しかし、これもセロトニンノルアドレナリンに作用する薬がうつ状態に効くことがあるため、考えられていることであり、まだ十分に実証されているとはいえません。

引用:厚生労働省 

 以上の見解が記されているのです。

うつ病の罹患者は著しくセロトニンの分泌量が少なく、またセロトニンの投与で寛解に向かったため、セロトニンうつ病は深い関係があるとの見方がなされています。

 

ぶっちゃけ消費税とかインボイス制度とか後回しでいいから、はやくセロトニンだけ手早く摂取できる薬をくれよ、と思うのは僕だけでしょうか。

 

セロトニンを増やす方法について本気出して考えてみた

www.youtube.com

ということで、僕らが幸福に生きるためのヒントであるセロトニンについて見てきましたが、問題は「どうすればセロトニンを増やせるの〜?」ってことです。

実はめちゃくちゃ簡単にセロトニンを増やす方法があるので、僕が「これ最強じゃね?」って思ったものをピックアップしてご紹介します。

 

・朝の太陽光を浴びる

・軽度な運動(ウォーキング、ジョギング、サイクリングなど)を継続する

・感動するものに触れて涙を流す

・瞑想に取り組む

・バナナを食べる

 

太陽光でなくとも2500ルクス以上の光を浴びればセロトニンは分泌されますが、白色灯では到底2500ルクスには足りません。

なるべく太陽光を浴びるようにしましょう。

 

運動もセロトニンの分泌には大きな好影響を与えるのでおすすめです。

軽度な運動とは、「日常に取り入れられる程度の運動」を指し、よく「リズム運動」と呼ばれています。

ながら運動ではなく、一定のリズムを意識しながら集中して取り組むのが肝心です。

ダンスや咀嚼などもリズムを意識する運動に入るので、セロトニンの増加によいといわれています。

 

涙を流すことで交感神経は副交感神経に切り替わり、セロトニンの分泌が促進されることがわかっています。

また、涙を流すと「マンガン」と呼ばれる元素も涙と一緒に流れ落ちるのですが、このマンガンうつ病にかかるリスクを高めるともいわれており、感涙するとセロトニンを増やしつつマンガンを放出できるので一石二鳥の効果が生まれるのです。

 

「胡散臭ぇ!」という声が聞こえてくるようですが、瞑想もかなり効果的なのでご紹介します。

お寺で微動だにしないまま座禅を組み、少しでも動こうものなら理不尽にも肩を殴打されるイメージが強い瞑想ですが、海外では「マインドフルネス」という呼び名で認知されている非常にメジャーな健康法のひとつです。

なにも座禅を組む必要はありません。

呼吸に意識を向けることで雑念から開放され、すっきりした頭と心を取り戻すのが目的なので、気楽におこないましょう。

おすすめは丹田呼吸法です。

楽な服装・格好をして、へそのしたあたりに意識を集中させながら腹式呼吸を行います。

目は薄く開けておき、体中を脱力させましょう。

ゆっくりと呼吸しながら湧き出てくる雑念をただ「眺める」ことに集中します。

「ああ、あれやらなきゃ」「これをすすめなきゃ」「あれがしたい」などといった意識をすべて受け流していると、だんだん頭の中がクリアになっていくのです。

じつはこの時間は副交感神経を優位にする効果があるので、心身ともに深いリラックス効果が得られます。

セロトニンの分泌も促進されるので、気軽に取り組んでみてください。


最後のひとつふざけてんだろ、って思われるかもしれませんが、マジです。

セロトニンは「トリプトファン」というアミノ酸の一種から作られますが、このトリプトファンを多く含んでいるのがバナナや牛乳、お肉なので、これらを多く摂取するとセロトニンが分泌されやすくなります。

 

結論:僕たちがこんな時代で幸せに生きるためには

ここまで紹介してきた方法を思い出してみると、僕たちが幸せに生きるためのライフハックが見えてきます。

 

つまり、朝日を浴びながらバナナ牛乳を飲み、牛ステーキにかぶりついてから瞑想をして町内を10分程度ランニングすればよいのです。

 

超健康的なアメリカンおじいちゃんみたいな生活ですが、逆に言えば超健康的なアメリカンお爺ちゃんはこういう生活スタイルを築き上げているから、この年まで元気に生きているのかもしれません。

亀の甲より年の功、僕らも先達を見習って生活スタイルを見直してみる必要がありそうです。

 

ちなみに、僕がこの文章を書いているのは朝の5時すぎ。

もちろんこれから爆睡します。

僕がセロトニンまみれの幸福な人生を歩むのは、まだまだ先の話になりそうです。

【保存版】副業はwebライターから着手すべき、初心者が月5万円稼ぐための方法とは

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働き方改革のあおりを受けて副業に意識が集まっています。

様々な職種がありますが、その中でも在宅で簡単にお金が稼げる副業としてwebライターはおすすめです。 

 

今回は初心者が月5万円の収入を得るための方法についてご紹介したいと思います。

私は現役のwebライターで、自営業としてライティング一本で生活できている状態です。

駆け出しの頃に「文字単価を20倍」にアップさせたので、その方法をまとめた記事があります、ぜひこちらも参考にしてくださいね。 

issinjou.hatenablog.jp

 

 

私のように、副業から始めてフリーランスとして独立もできるので、かなり伸びしろのある職業だといえるでしょう。

 

まずは月5万円の副収入を作るところを目標に、webライティングをスタートさせましょう。

 

月5万円の副収入を得るために必要なたった一つのこと

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月5万円の副収入を得られれば、生活水準は大きく変わります。

 

小さなことかもしれませんが、細かな生活の質を高めることができれば日々の意識も変わり、モチベーションも高まるでしょう。

 

月5万円あれば……

「月に5回どころか6回も回転寿司が食べられる」

「ケンタッキーをおなかいっぱい食べられる」

「コンビニで小銭をケチって100円のおにぎりを買わずに120円のおにぎりが食べられる」

ファミチキも追加で食べられる」

などの恩恵を受けられます。

 

なぜ全て食べ物なのかはさておき、人生を豊かにするための投資にも回せますね。

年収に換算すると

 

5万円×12ヶ月=60万円

 

一気に60万円も年収がアップします。

 

これだけ収入に余裕が生まれれば、金融庁が発表して物議を醸している年金制度に関するデータも、それほど悲観せずに眺められるでしょう。

 

これからは自分で「価値をお金に変えていく」意識が重要です。

 

そして、副業で月5万円を得るためにはこの「価値をつくる」という意識が必要なのです。

 

ライターとしてお金を稼ぐということは「文章」に価値が生まれなければなりません。

 

価値ある文章とは、読み手になんらかの行動や意識の変化を与えるものです。

 

web記事は、特に情報収集をインスタントに行う方向けのコンテンツといえます。

読みやすいだけではなく、読者にとって得るものがなければなりません。

 

「情報提供」+「付加価値」=良い文章

 

といえます。

この意識は忘れないようにしましょう。

 

では、良い文章を書くにはどのような力が必要なのでしょうか。

 

一言でいえば、「文章力」です。

文章力について説明する前に、ライターとして稼ぐために必要な「論理」と「得意分野」にまつわる話をさせてください。

 

Webライターとして稼ぐには「論理」と「得意」が必須

 

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ライターとして稼ぐために必要なのは筆の速さでも卓越した語彙力でもありません。

「論理」と「得意分野」か重なれば、あなたの書く文章には高値がつくようになります。

 

論理的に文章を書いて「稼げるライター」になろう

 

web記事は特に情報提供がメインとなることが多いです。

あなたも

 

「〇〇 とは」

 

といったキーワードで検索した経験があるのではないでしょうか?

インスタントに情報を得たい方へ向けて情報を提供するのがweb記事の目的です。

もっといえば、その先でメディアやメディア運営を手がけている企業に興味を持ってもらうのが目的といえます。

 

読者が〇〇の意味や周辺知識を得たくて訪れたのに、長々と言葉をこねくり回している記事を読みたいと思いますか?

 

答えはNOです。

 

できる限り簡潔に結論を述べて、その理由となる説明を論理的に組み立てなければその記事には説得力が生まれません。

 

なので、ライターとしてお金を稼ぐためには論理的な文章力が必須となります。

 

論理の基本は「演繹」と「帰納」です。

 

演繹とは

 

「カラスは鳥である

 鳥には羽がある

 ……つまりカラスには羽がある!

 

といった数珠繋ぎの説明方法をさします。

 

帰納とは

 

「鳩は鳥である

 カラスは鳥である

 白鳥は鳥である

 鳩にもカラスにも白鳥にも羽がある

 ……つまり鳥には羽がある!

 

といったように、法則に着目した論理です。

これらを意識しながら文章が書けるようになると、記事に説得力が生まれます。

説得力のある記事は多くの読者から信頼されるので、アクセスが伸びるでしょう。

 

結果、アクセスの伸びる記事を書いたということで単価を上げてもらえたり、自分の実績としてより高単価の案件にも通りやすくなるのです。

 

稼げるライターと稼げないライターの大きな差は「論理の有無」にあるといえます。

 
得意分野を持って「オンリーワンのライター」になろう

 

得意分野を持つことも、稼げるライターになる上で非常に大切です。

 

たとえば以前、医療系の記事が一気に摘発された事件がありました。

今でも眉唾の知識でライターとして活動し、Web上に誤った情報をばらまいているメディアやライターは存在します。

しかし、こうしたメディアは長続きせず、読者も離れていってしまうでしょう。

 

加えて、GoogleSEOの仕組みをどんどん「ユーザー寄り」に変遷させています。

これはつまり「ユーザーファースト」な記事を書いていれば、自然とSEOの順位も上がり、読者が集まり、メディアが儲かり、あなたも儲かる、ということです。

 

ユーザーファーストとは、つまりサイトを訪れた読者にとって「知りたいこと以上の収穫があった」という認識をしてもらうことでしょう。

以前ワタ◯でアルバイトをしていたとき、店長がしきりにこう言っていました。

 

「飲食店にご飯を食べに来たお客様が、元気にならずに腹だけ膨らませて帰るんだったらそのお店は必要ない!」

 

なんて極端なことを言う人なんだろう、と思ってみていましたが、今となってはその気持ちがわかります。

つまり「顧客の期待を超えなければ次はない」という至極当然の摂理だと気づいたのです。

 

Webライティングにおける顧客とは「読者」です。

そして期待を超えるとは「ここまで面白いとは思わなかった」「知りたいこと以上のことが理解できた」という経験を与えることでしょう。

 

そうした記事が書けるライターはそう多くありません。

なので、あなたの「得意」を作ることが実に重要なのです。

 

たとえば専門資格があれば権威性のある記事が執筆できるでしょう。

法律や医療といった重大なテーマを扱うメディアにはほとんど「監修」や「編集」「ライター」として専門家が携わっています。

あなたのもつ資格は、そのままメディアの信頼となり、説得力を担保してくれるでしょう。

結果として稼げるライターへステップアップできるのです。

 

また、誰より深い知識を持っていたり、だれも知らないことを知っていたりすると、それは専門知識となり大きな価値を生むでしょう。

どこにもないオリジナルの情報にはオンリーワンの価値があるので、競合と順位争いをせずに済みます。

ブルーオーシャンで戦えるようになれば、ライターとしてもメディアとしても願ったり叶ったりでしょう。

 

オリジナルのライターとして地位を確立するには、得意分野を突き詰めましょう。

わかりやすく資格を取得するのも良いですし、実績を積んで箔をつけるのもよいです。

他人との差別化を意識して、案件をこなしてみることをおすすめします。 

 

オリジナリティのある記事が読者にウケれば、競合がいなくなります。

競合がいなくなればアクセスが伸び、良い記事として評価を受けるでしょう。

ライターとしての単価アップに直結しますよね。

 

こうしたよい循環を生み出すためには、根底に確固とした「文章力」が必要です。

文章力を鍛えるにはどうすればよいのでしょう。 

 

文章力を鍛えるには

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結論から言えば、文章力は「読む」「書く」「話す」「聞く」ことでしか伸ばせません。

私たちは言語で思考をします。

脳内ではいつもたくさんの言葉が飛び交っているでしょう。

しかし、それらを眺めているだけでは文章力は一ミリも伸びません。

はじめからあなたの中にある「文法」「単語」をこねくり回しているだけでは絶対にあ新しい文章は書けないのです。

 

考えるのではなく、「わからないなぁ……ここの表現はどうしよう」とウンウンうなりながら言葉をひねり出したほうが有意義でしょう。

 

始めは拙い文章しか書けないかもしれません。

しかし、誰もがその拙文を削ったり付け足したりしながら文章力を磨いてきたのです。

あなたにも必ず、魅力的な言葉を使う能力が備わっています。

その能力を伸ばすことが大切です。

 

文章力を自力で伸ばすのはかなり骨が折れる作業といえます。

私は駆け出しライターだったころ、時給(換算すると)300円以下で文章を書いていました。

当時は「安すぎだろ、カフェ代も出せないよ」と愚痴を垂れ流し、タリーズでハニーミルクラテを飲みながらライティングをしていました。

 

今となっては、タリーズでランチのパスタセットを食べてもお釣りがくる金額を1時間で稼げるようになったのです。

この進歩の裏には、数え切れないほどの「赤入れ」や「修正」がありました。

「マニュアル」に沿って文章を書くことがこんなに難しいなんて、知らなかったのです。

 

「自分の書きたいことを書くのではない、読者が読みたいものを書くのだ」

とは誰の言葉でもありませんが私がモットーにしているものです。

おそらくかなり正確に「ライター」という仕事を表しているのではないでしょうか。

 

読まれる文章を書くとはそういうことです。

そして文章力を鍛えるとは、まさに「読者」という目的に向けて文章を書ける能力のことでしょう。

 

そこでおすすめしたいのが「添削サービス」です。

 

あなたの文章力、「矯正」じゃなくて「伸ばし」ます

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文章のプロである私がマンツーマンで文章の添削を行い、独特の手癖を「消す」のではなく「伸ばす」方向で文章の指導を行います。

 

当方は福岡県に在住していますが、遠方に住んでいる方はオンラインでリアルタイムの添削を行いますので安心してご連絡ください。

 

 

ぶっちゃけ1人数千円という参加費を取って、どこかでセミナーを開いたほうがお金にはなるのです。

なんか、有名なライターさんはみなさんそういった稼ぎ方をされていますね。

名前は◯サロンとか、なんか、そんな感じで。

 

もう本心からぶっちゃけます、数千円なんて払わなくても文章力は「伸ばせます」

しかも手癖を活かして、「オリジナルの文体」を身に着ける方向であなたの文章を花開かせます。

 

題して

 

『オリジナルの文章で「稼げるライター」になる講座』

 

……そのまんまですね。

 

初回は無料で添削を行います。

2回目からは1時間あたり500円で行おうと考えてます。

 

500円なんて、文字単価1円のライターだったら500文字で稼いでしまいますね。

 

500文字打つのにかかる時間なんて、タッチタイピングができる人であれば確実に10分もかかりません。

 

なんでこんな話をしたかというと、ある目的の説明をするためです。

 

断言します。

私の講座を受講した全員を、例外なく「文字単価1円以上」のライターに育てます。

ぶっちゃけ楽勝です。私はだいたい3ヶ月かからないくらいで文字単価1円に伸びました。

で、文字単価1円貰えればライターとして独立するもよし、副業でガンガン稼ぐもよし、というスタートラインに立てるんですね。

 

1時間500円で文字単価1円ライターになれるチャンスは、まあ、なんとかサロンでは得られません。

なぜならオンラインサロンは「思考停止した人」を量産するための場だからです。

だってお金払い続けてくれるんですもん、運営者から見れば、自分で考えて行動なんてされたら上がりが減っちゃいますよね。

だから必死に「ここにいるだけで有能だよ」という意識をもたせようとしてます。

私はそういうの寒気がするくらい嫌いなので、格安で本物の技術と「自分で考える場」を提供します。

 

もちろん、ライターにならない人でも大歓迎です。

人事の経験があるので、就活で役立つPRの書き方とか、教えられることは教えたいなぁと思っています。

 

興味のある方は

issinjounotsugou@gmail.com

までご連絡ください。

 

一緒に文章で世の中を豊かにしていきましょう。

神奈川県の児童襲撃事件から僕たちが学ぶべき、世界平和につながる一つの「意識」とは

 

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ふわとろ、一身上の都合です。

 

さて、非常に痛ましく、理解に苦しむ事件が起きています。

手当たり次第に切り付け=川崎児童襲撃、ドライブレコーダーに映像-神奈川県警

連日メディアを賑わしている神奈川県の児童襲撃事件。

今日はこの事件についてすこし思うことを書きたいと思います。

 

神奈川県の児童襲撃事件は他人事じゃない

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実は神奈川県で起きた児童襲撃事件で加害者となった男性の姿は、先日僕が書いた記事の内容と非常にリンクしているのです。

先日僕が書いたこちらの記事、ご覧いただけましたでしょうか。

issinjou.hatenablog.jp

 

この記事で僕は『社会的弱者』について持論を書き連ねました。

社会的弱者にこそ、経済の輪に参加する権利を与えるべきだ、と。

彼らに目を背けて見て見ぬ振りを続けていては、絶対に自らの身を滅ぼすことになるのです。

まさにその通りになってしまいました。そして、僕がこの記事を書くより前に同じことを述べている著名人がいます。

 

日本最大の匿名掲示板「2ちゃんねる」を創設したひろゆきさんです。

加害者男性のことをこれ以上なく的確にあらわしている「無敵の人」という表現を用いて、10年以上前に警鐘を鳴らしていました。

ひろゆきさんの一連のツイートを見ても分かる通り、神奈川の事件で加害者となった男性には失うものが何もなかったのです。

 

誰にも見てもらえず、ただやり場のない憎しみと怒り、失望だけが渦巻いていたことが読み取れます。

 

 そのような状況に陥った人へ「人に迷惑をかけずに一人で死ねよ」と言うのは、あまりに無責任です。

他人事だと思っているのであれば、その認識は直ちになおすべきでしょう。

 

なぜなら、これからさらに「無敵の人」は増加し、もしかしたら同じような事件が起きたときに被害者となるのは僕たちかもしれないからです。

同時に、加害者となりうる可能性だって十分にあります。

 

無敵の人を生まないために僕らができること

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僕たちがこの痛ましい事件から学ぶべきことは、たくさんあります。

その中でもいちばん重要な学びは「理解できないものを否定しない」という意識ではないでしょうか。

 

まず、無敵の人に「なりたくてなる人」なんていません。

好き好んで人から迫害されて、社会から隔絶されて、経済的に困窮する人なんているわけがないのです。

何らかの能力が欠如していたり、運が悪かったり、もしかしたら顔が悪かったりして社会から迫害されてしまっただけかもしれません。

 

そしてそれは仕方がないことです。

僕たち生物は「淘汰」を繰り返して種を存続させてきました。

弱者は早々に死に、強い者や賢い者だけが生き残ってきました。

その結果、優良な遺伝子だけが残り、生存の可能性が高まるように出来ているのです。

 

だから、顔が良くなかったり、社会でうまく生きられない人が隔絶されるのは仕方がないことなのです。

 

では何が問題なのか、どうすれば神奈川で起きた悲劇を繰り返さずに済むのか。

 

社会に加わっている人たちが「見て見ぬふり」をやめることです。

 

まず、世の中は公平ではないし、チャンスは平等ではありません。

勝つ人もいれば負ける人もいる。逆に言えば、負ける人がいるから勝てる人がいるのです。

 

その意識を、なるべく多くの人が持つべきです。

わかりやすい例で言えば、生活保護家庭など、困窮している立場の人への理解が足りていないことが挙げられます。

 

今回の無敵の人もそうですが、たった一言「人に迷惑かけずに一人で死ねよ」で済ませていては、この悲劇は繰り返されるでしょう。

生活保護家庭の高校生に「ゼイタクだから進学しないで就職しろよ」と声を荒げていては、いつまでたっても貧困の連鎖は打ち切れないので、社会保障費は増え続けるでしょう。

 

理解できないものを「否定」する人が多すぎるのです。

否定は拒絶となり、迫害された人たちへの攻撃となります。

攻撃された無敵の人は、その憎しみを発散させることを厭いません。

失うものがないのです。

 

満たされている人たちは、高いところから石を投げつけるばかりでこちらの話を聞きもしない。だから、殺してやる。

そんな思考に至っても、仕方がないのではないかとすら思ってしまいます。

 

もちろん、そういった状況下に置かれても他人を憎まずに研鑽を積める人はいます。

でもそれはほんの一握りです。

人は弱く、脆い生き物です。

だからこそ、拒絶や攻撃を受けたときに耐えられる人はそう多くありません。

 

僕たちが無意識に口にしている「一人で勝手に死ねよ」「当人の努力不足だろ」という言葉は、無敵の人たちがナイフを握る理由になりうるのです。

 

まずその自覚が必要でしょう。

 

無敵の人にならないために僕らができるたったひとつの対策

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僕たちは誰でも、いつでも、無敵の人になる可能性を秘めています。

 

会社が倒産するかもしれない。

戦争が始まってアノミーになるかもしれない。

彼女に振られるかもしれない。

身体が動かなくなるかもしれない。

 

リスクまみれのなかで、なんとかかんとかリスクを回避して、僕たちは無敵の人にならないように生きているのです。

何かが崩れれば、僕も、あなたも、どこかでナイフを握って立っていたかもしれません。

 

無敵の人の被害者にならないために、同様に加害者にならないために僕たちが取れる対策はたったひとつです。

 

他人を認め、認められるような努力を怠らないことです。

 

無敵の人に足りていないのは、結局のところ社会からの承認です。

「あなたはここにいていいよ」と認めてくれる存在が一人もいなくなったら、その世界で僕は正気を保っていられる自信がありません。

きっとあなたもそうだと思うのです。

 

だから、いま僕たちを認めてくれている人を大切にしましょう。そして、この先も認めてもらえるような努力を怠らないようにしましょう。

もし、もしあなたに余裕があるのなら、もう少し多くの人を認めてあげてください。

理解できない人に対して、「否定」ではなく「認める」意識を持ってみてください。

 

そういう意識が増えれば、この世界はもっと優しくなるはずです。

 

ちなみに、認めるとは「理解する」とはちょっと異なります。

「理解する」とは「わかってあげる」ということですが、どう頑張っても理解できない相手はいます。

そういう相手に対して無理やり理解しようと働きかける必要はありません。

 

「認める」とは、「僕はあなたを理解できないけれど、理解できないことを理解した」状態になることです。

 

拒絶でもなく、理解でもなく、認める。

そこにいることを容認してあげる。ただそれだけでいいのです。

 

セクシャルマイノリティも、社会的弱者も、今回のような無敵の人も、まぜこぜに生きている方舟がこの地球です。

ありのままの姿を認めてあげましょうよ。

そこから、対話するもよし、喧嘩するもよし、仲良くなるもよしです。

 

もうこんな悲劇を繰り返さないためにも、今日からあなたが意識を変えてみましょう。

きっと色が変わって、僕らが呼吸しやすい世界をみせてくれるはずです。