ふわとろオムライスになれたら

現役Webライターが綴る、仕事のあれこれや日常の中で感じた「思考」の原石。

神奈川県の児童襲撃事件から僕たちが学ぶべき、世界平和につながる一つの「意識」とは

 

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ふわとろ、一身上の都合です。

 

さて、非常に痛ましく、理解に苦しむ事件が起きています。

手当たり次第に切り付け=川崎児童襲撃、ドライブレコーダーに映像-神奈川県警

連日メディアを賑わしている神奈川県の児童襲撃事件。

今日はこの事件についてすこし思うことを書きたいと思います。

 

神奈川県の児童襲撃事件は他人事じゃない

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実は神奈川県で起きた児童襲撃事件で加害者となった男性の姿は、先日僕が書いた記事の内容と非常にリンクしているのです。

先日僕が書いたこちらの記事、ご覧いただけましたでしょうか。

issinjou.hatenablog.jp

 

この記事で僕は『社会的弱者』について持論を書き連ねました。

社会的弱者にこそ、経済の輪に参加する権利を与えるべきだ、と。

彼らに目を背けて見て見ぬ振りを続けていては、絶対に自らの身を滅ぼすことになるのです。

まさにその通りになってしまいました。そして、僕がこの記事を書くより前に同じことを述べている著名人がいます。

 

日本最大の匿名掲示板「2ちゃんねる」を創設したひろゆきさんです。

加害者男性のことをこれ以上なく的確にあらわしている「無敵の人」という表現を用いて、10年以上前に警鐘を鳴らしていました。

ひろゆきさんの一連のツイートを見ても分かる通り、神奈川の事件で加害者となった男性には失うものが何もなかったのです。

 

誰にも見てもらえず、ただやり場のない憎しみと怒り、失望だけが渦巻いていたことが読み取れます。

 

 そのような状況に陥った人へ「人に迷惑をかけずに一人で死ねよ」と言うのは、あまりに無責任です。

他人事だと思っているのであれば、その認識は直ちになおすべきでしょう。

 

なぜなら、これからさらに「無敵の人」は増加し、もしかしたら同じような事件が起きたときに被害者となるのは僕たちかもしれないからです。

同時に、加害者となりうる可能性だって十分にあります。

 

無敵の人を生まないために僕らができること

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僕たちがこの痛ましい事件から学ぶべきことは、たくさんあります。

その中でもいちばん重要な学びは「理解できないものを否定しない」という意識ではないでしょうか。

 

まず、無敵の人に「なりたくてなる人」なんていません。

好き好んで人から迫害されて、社会から隔絶されて、経済的に困窮する人なんているわけがないのです。

何らかの能力が欠如していたり、運が悪かったり、もしかしたら顔が悪かったりして社会から迫害されてしまっただけかもしれません。

 

そしてそれは仕方がないことです。

僕たち生物は「淘汰」を繰り返して種を存続させてきました。

弱者は早々に死に、強い者や賢い者だけが生き残ってきました。

その結果、優良な遺伝子だけが残り、生存の可能性が高まるように出来ているのです。

 

だから、顔が良くなかったり、社会でうまく生きられない人が隔絶されるのは仕方がないことなのです。

 

では何が問題なのか、どうすれば神奈川で起きた悲劇を繰り返さずに済むのか。

 

社会に加わっている人たちが「見て見ぬふり」をやめることです。

 

まず、世の中は公平ではないし、チャンスは平等ではありません。

勝つ人もいれば負ける人もいる。逆に言えば、負ける人がいるから勝てる人がいるのです。

 

その意識を、なるべく多くの人が持つべきです。

わかりやすい例で言えば、生活保護家庭など、困窮している立場の人への理解が足りていないことが挙げられます。

 

今回の無敵の人もそうですが、たった一言「人に迷惑かけずに一人で死ねよ」で済ませていては、この悲劇は繰り返されるでしょう。

生活保護家庭の高校生に「ゼイタクだから進学しないで就職しろよ」と声を荒げていては、いつまでたっても貧困の連鎖は打ち切れないので、社会保障費は増え続けるでしょう。

 

理解できないものを「否定」する人が多すぎるのです。

否定は拒絶となり、迫害された人たちへの攻撃となります。

攻撃された無敵の人は、その憎しみを発散させることを厭いません。

失うものがないのです。

 

満たされている人たちは、高いところから石を投げつけるばかりでこちらの話を聞きもしない。だから、殺してやる。

そんな思考に至っても、仕方がないのではないかとすら思ってしまいます。

 

もちろん、そういった状況下に置かれても他人を憎まずに研鑽を積める人はいます。

でもそれはほんの一握りです。

人は弱く、脆い生き物です。

だからこそ、拒絶や攻撃を受けたときに耐えられる人はそう多くありません。

 

僕たちが無意識に口にしている「一人で勝手に死ねよ」「当人の努力不足だろ」という言葉は、無敵の人たちがナイフを握る理由になりうるのです。

 

まずその自覚が必要でしょう。

 

無敵の人にならないために僕らができるたったひとつの対策

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僕たちは誰でも、いつでも、無敵の人になる可能性を秘めています。

 

会社が倒産するかもしれない。

戦争が始まってアノミーになるかもしれない。

彼女に振られるかもしれない。

身体が動かなくなるかもしれない。

 

リスクまみれのなかで、なんとかかんとかリスクを回避して、僕たちは無敵の人にならないように生きているのです。

何かが崩れれば、僕も、あなたも、どこかでナイフを握って立っていたかもしれません。

 

無敵の人の被害者にならないために、同様に加害者にならないために僕たちが取れる対策はたったひとつです。

 

他人を認め、認められるような努力を怠らないことです。

 

無敵の人に足りていないのは、結局のところ社会からの承認です。

「あなたはここにいていいよ」と認めてくれる存在が一人もいなくなったら、その世界で僕は正気を保っていられる自信がありません。

きっとあなたもそうだと思うのです。

 

だから、いま僕たちを認めてくれている人を大切にしましょう。そして、この先も認めてもらえるような努力を怠らないようにしましょう。

もし、もしあなたに余裕があるのなら、もう少し多くの人を認めてあげてください。

理解できない人に対して、「否定」ではなく「認める」意識を持ってみてください。

 

そういう意識が増えれば、この世界はもっと優しくなるはずです。

 

ちなみに、認めるとは「理解する」とはちょっと異なります。

「理解する」とは「わかってあげる」ということですが、どう頑張っても理解できない相手はいます。

そういう相手に対して無理やり理解しようと働きかける必要はありません。

 

「認める」とは、「僕はあなたを理解できないけれど、理解できないことを理解した」状態になることです。

 

拒絶でもなく、理解でもなく、認める。

そこにいることを容認してあげる。ただそれだけでいいのです。

 

セクシャルマイノリティも、社会的弱者も、今回のような無敵の人も、まぜこぜに生きている方舟がこの地球です。

ありのままの姿を認めてあげましょうよ。

そこから、対話するもよし、喧嘩するもよし、仲良くなるもよしです。

 

もうこんな悲劇を繰り返さないためにも、今日からあなたが意識を変えてみましょう。

きっと色が変わって、僕らが呼吸しやすい世界をみせてくれるはずです。