不幸の沼がちょうど良い温度になっているのは、人間に備わった最大のバグだ
三秋縋という小説家の言葉を借りれば、人間はどこかのタイミングで穴に落ちるらしい。
その穴の深さや暗さ、抜け出しづらさは人それぞれだが、その穴に落ちたが最後、人は苦悩にさいなまれる日々を送らなければならない。
俺の場合はそれが生まれたその瞬間から続いていたわけだけれど、きっとそういう人は現代社会では少なくない。核家族や貧困はもう珍しいことじゃなくなった。ネグレクトやDV、アル中、生活保護なんて溢れかえっているし、漫画や小説でも「ありきたり」の設定になっている。ぶっちゃけ、異常だ。
なぜこうも人は不幸から抜け出せないのか。自分なりに考えてみた。
結果、不幸の沼(三秋縋が言うところの『穴』)は、人間にとってちょうど心地よい温度になっているからだ、という結論に至った。
わかりやすい不幸は同情を誘い、人々の正義心を煽る。わかりやすい例が募金やボランティア活動だ。
いきなりうがった見方をしてしまうが、募金やボランティアといった「無条件に人の上に立てる状況」が気持ちよくない人間などいないので、他者の不幸は凡庸な人生を送る人にとっては最大のスパイス、麻薬、嗜好品になるだろう。
急に福祉に目覚める連中が大嫌いなのは、そういった理由からである。同様に、人並みの正義感しか持ち合わせておらず、またやりがいを感じているわけでもないのに警察官を目指す連中が嫌いなのも、根本的に「正義」という名のもとに他者の上に立って自分が気持ちよくなりたいだけだ、というホンネが透けて見えてしまうためだ。
こういった「無条件に上に立ちたい」という群集心理の渦中にいる人は、その本質には気づかない。
表面的な優しさや愛情もどきの言動を受け取るために、自分の不遇を利用する人だっている。なぜならお得だからだ。
不幸の渦中にいる人と、不幸な人を利用して気持ちよくなろうとする人は、互いにオナニーをしあっているだけにすぎない。
言いたいことをいい、言われたいことを言われるように誘導し、気持ちよくなる言葉だけが交わされるその空間に、本物の救いなど存在しない。風俗のサービスに愛を感じないように。ホストクラブやキャバクラで交わす言葉がウソまみれであるように。
不幸の沼は、初めは立ち入った人をひどく傷つけ、苦しめる。
不運にも不幸の沼に足を踏み入れてしまった人は、自分の境遇を呪い、呪縛から解き放たれようと必死にもがくだろう。そこで抜け出せるのなら救いはある。
しかし、どれだけあがいても抜け出せない人だって、一定数は存在する。その沼が深すぎるのか、単純にその人が虚弱なのか、あるいはその両方か、理由はそれぞれだ。
問題は、その人が「この沼からは抜け出せないみたい」と思ってしまったとき。そこから不幸の沼は一転して「気持ちの良い居場所」に変わる。
例えば俺は「生活保護」「片親」「DV」「アル中」と役満レベルで沼が揃っている。一つの沼を超えて満身創痍になった俺を、また新たな沼が待ち構える。黒田官兵衛が腰を抜かし、諸葛亮孔明が泣いて許しを乞うほどに隙のない完璧な布陣である。
この沼地を超えてきた俺が思うに、沼というのはそれだけで非常に強力なアイデンティティたりうる存在であると思う。
「偏差値35から東大の首席に!」という文言が魅力的なのは、「東大」というだけでもすごいのに、出発点が「偏差値35」だからだ。振れ幅が大きければ人は感銘を受ける。
また、「偏差値35の少年が万引き行為を犯した」という文言には妙な説得力がある。
「万引き」という言葉のマイナスと「偏差値35」という言葉のマイナスが上手く調和して、「そりゃそうだよな」という感覚を引き起こすのだ。
人は物事を理解するときに「ストレスなく受け取れるもの」を愛する傾向にある。逆に、理解しがたい状況に陥ると自分の信念や常識的な思考を捻じ曲げてでも現実を受け入れようとする。
これを心理学的には「認知的不協和」と呼んだりするが、結局のところ、人間は分かりやすいものが好きで、分かりにくいものは捻じ曲げなければ理解しにくい、ということだ。
話をもどすと、沼がアイデンティティたりうると述べたのは、この認知的不協和が密接に関わっている。
ありえないほどのマイナスを背負った瞬間から、その人の行動には特異性が付与される。
プラスの結果を得れば「ギャップ」が、マイナスの結果を得れば「理解」がつきまとう、といえば分かりやすいだろうか。
家庭環境が崩壊している家庭に生まれた少年が非行に走れば、人は口を揃えて「そりゃそうなるよ」と言うだろう。
逆に、この少年が人を助けたり、猛勉強をして特待生として進学したりすれば「とても優秀な子だ」と言うだろう。
非行も進学も、べつに珍しい話ではない。どこもかしこも反社会的な行動と向社会的な行動で溢れかえっている。
それでも、特異な環境を経験している人が何らかのアクションを起こせば、それはその人のアイデンティティとして認められてしまうのだ。
その結果、プラスやマイナスが実像を超えて誇張されたり、本人が必要以上に自分の価値基準を環境に合わせてしまったりする。これでは本来の自分の姿が見えにくくなる一方ではないだろうか。
くわえて、不遇な環境にいる人は他者のオナニーに使われてしまうことだって少なくない。その過程で表面上の満足を得てしまうと、自分のホンネをさらけ出して関わろうという気持ちが起きなくなってしまう。
自分のアイデンティティは沼地にあるのだ、と強く信じ込み、どんどんその深みにハマっていくのだ。
最初は抜け出したいと強く願っていたはずの沼地が居心地の良い空間になるのは、ちょうどこのあたりだろう。
自分のアイデンティティと不遇な過去が結びついたとき、人は停滞してしまう。
ここでいいや、ここでも気持ちいいしいいや、解決しなくていいや。と、どんどん沼に留まる方向で心理を片付けてしまうだろう。
不幸の沼がちょうど良い温度になっているというのには、このような背景がある。
そして、この「不幸が気持ち良い」という状況に陥った人を見たり、自分の過去を振り返ったりするなかで気づいたのが、「不幸が気持ちいいってバグじゃないの?」という点だ。
不幸を気持ちよく感じるなんて、常識的に考えておかしな話だと思う。
しかし、ここまで紹介してきたとおり、人は不幸に愛されてしまうと抜け出せなくなるものだ。
この最大のバグを他でもないあなたが認めて、客観的な視野を持って分析し、今後の意思決定に役立てることができれば良いだろう。
さて、文句ばかり垂れても仕方がないので、不幸の沼を抜け出すための言葉を幾つか紹介しよう。
「不幸を気持ち良いと思うのは『認知的不協和』と『学習性無力感』などが密接に関連している。あなたのせいではない」
といったように学術的な視点からアプローチしてみると、意外とすんなり理解できたりするものだ。
今、自分が不幸の沼に浸かっていると感じるのであれば、そのぬるま湯を断ち切って、正しく温かいお湯を浴びるか、冷たい雨の中を走って行く覚悟をもつか、どちらかを選ばなければならないのである。