ふわとろオムライスになれたら

現役Webライターが綴る、仕事のあれこれや日常の中で感じた「思考」の原石。

冷たさと同様に熱も伝播することを僕らは本能的に理解している、という話

ふわとろ、ネカフェで仕事するのが最近のマイブームになりつつある一身上の都合です。

ネカフェってどことなく秘密基地感があるのでめちゃくちゃ好きなんですが、あまり理解してもらえなくて悲しいですね。

 

ネカフェで仕事しているといろいろな人を目にします。

すれ違うだけで臭い人、漫画を読み漁りに来た臭い人、恥ずかしそうに萌え漫画を抱えて部屋に戻る臭い人……etc

臭い人しかいないわけじゃないんですが、僕がよく行くネカフェはかなり臭いんですよね。僕も例に漏れず臭いので逆に居心地が良いです。

 

まぁそれは置いておいて、ネカフェではなぜか仕事が捗ります。この文章もネカフェの個室でマッサージチェアに揺られながら書いていますが、いつもの1.5倍くらいで筆が進むんです。

 

その理由は、ネカフェの「秘密基地感」が僕に火を着けているからだと思います。

 

ネカフェで仕事をしているとき、僕は世界一カッコいい男になっている

秘密基地って四文字だけでとてつもなくワクワクしますよね。

大きなパソコンに適度な狭さの個室、薄暗い照明、たくさんの娯楽……。

誰にでも快適な「ひとりだけの空間」を提供してくれるネカフェは、秘密基地に最も近い商業施設のひとつと言ってよいでしょう。

その空間に身を置き、リモートワークに取り組む僕は世界一カッコいい男なんです。

誰がなんと言おうと、天神のネカフェでUVERworldを聴きながらタイピングをしている僕は世界一カッコいいんですよ。

 

そして、こういう中二病的な思考って誰にでもあると思うんです。

ただ、大人になるにつれて僕らは中二病を卒業していきます。

 

恥ずかしいし、痛いし、現実見えてないし。

何より青臭い。ネカフェの臭さとはまた一味違う臭さがあるので、社会で鼻つまみ者にならないために僕らは中二病を卒業することを強いられます。

 

そこまで考えてはたと気づいたことですが、僕はシェアハウスの住人である高校生の女の子にこの間こんな話をしたんです。

 

中二病的思考は全く恥ずかしいものじゃない

 

中二病的な思考って全然恥ずかしいことじゃないよ。起業家の自己啓発本や偉人の本はたいてい中二病的思考を垂れ流してるだけだし、その思考自体は全く悪いものじゃない。でも思考ばかり身につけて実際の行動が伴っていないから中二病は恥ずかしいこととみなされているだけだよね」

 

続けて

 

中二病的な思考を捨てずにいた人だけがチャンスを手にするし、中二病的な思考を現実にするために生きた人だけが成功を手にするんじゃないかな」

 

我ながら青臭くてかないませんが、こんな言葉を偉そうに吐いたのです。

発言者である僕は起業家でも偉人でもないので、まったく説得力がありませんが、発言した内容自体は間違っていないと思います。

 

中二病的な思考は、自分の夢を恥ずかしげもなく語り、自分を特別だと思い込み、他者を否定してでも理想の世界を実現しようとする心のはたらきだと思うんです。

中二病を発症するのが13〜18歳あたりであることからも、これは肥大化したエゴが主となって起こる認知のゆがみだと推測されます。

 

実際、青年期の課題である「アイデンティティの確立」を為すためには、一度この肥大化したエゴと向き合わなければなりません。

通過儀礼と言ってしまえばそれで終わりですが、僕らは今一度この「中二病的思考」と真剣に向き合わなければならないと思います。

なぜならこの思考こそ、自分と世界をより良い場所へ導く何より強固な指針だからです。

 

中二病的思考が僕らに教えてくれること

中二病的思考を捨てずにいるのは非常に苦しいものです。

かめはめ波は出せないし、スタンドは居ないし、世界を救う役目だって僕らには回ってきません。

 

いつの日か、僕らは自分が主人公ではないと気づいてしまうんです。

 

ある人は学校の片隅で愛想笑いを浮かべている時に。

ある人は入社した会社で上司に叱責された時に。

ある人は自分の努力が水泡に帰して無力感に苛まれた時に。

 

現実はいともたやすく僕らが縋っていた中二病的な幻想を打ち砕いていきます。

あざ笑いながら、水槽の中で泳ぐ金魚を驚かすくらいの気軽さで、風雨に晒されながら必死に守ってきた灯火を吹き消していくのです。

 

それでも、僕らは主人公であり続けようとします。歯を食いしばって、目を見開いて前を向きます。

でもそれが難しい方だって一定数いらっしゃいます。

為す術もなく打ちひしがれて、自分は脇役だったと見せつけられて、嫉妬や羨望を超えた先で無感動の暗闇に堕ちていく人が跡を絶ちません。

それはなぜか。

自分の中にあったはずの「厨二病的思考」を、誰より自分が「恥ずかしいもの」だと決めつけてしまっているからです。

 

それこそが、あなたが主人公の座に駆け上がるために渡されていたチケットだったのにも関わらず、恥ずかしいものだと思いこんで破り捨ててしまっています。

 

僕らが自分らしく、楽しく強かに生きるためにはそのチケットが必要になるでしょう。

 

なぜなら、そのチケットは僕らが何の主人公で、どんなシナリオを望み、誰を救い、どのように幸せになりたいか、を全て記した生き方のバイブルとしての役割も果たしているからです。

 

厨二病的思考はなぜ「恥ずかしい」ものなのか

こうしてみると、中二病的な思考はまったくもって恥ずかしいものではありません。

かめはめ波だってスタンドだってカッコいいものです、流石に20歳を超えて「異能力で悪いヤツを倒したい」と素面で叫ぶ人はどうかしていますが、その根底には「世界を救いたい」という思いや「カッコいい自分でありたい」というヒーロー的な思考が見え隠れしています。

 

ヒーローになりたい、という思考は本当に悪いものなのでしょうか。

どうにも腑に落ちませんね、少し視点を変えて見ましょう。

 

ドラゴンボールに登場する「ヤムチャ」は今なお悲惨なキャラクターとしてネタにされるくらいに可哀想な男です。

サイバイマンの自爆に巻き込まれたり、ブルマに振られたりとなかなかえげつない立ち位置にいる彼の目から見ると、悟空はどのような存在に映っているのでしょう。

 

幼少期から長い付き合いだった悟空がたくさんの仲間と世界を救うために戦うなか、彼は戦闘員としてのメンバーから外され、亀仙人と同様に観戦するポジションへと回されてしまいました。

ポッと出のベジータなんかよりもずっとずっと長い付き合いなのに、悟空がアテにしているのは完全にベジータです。

ムカつくでしょう。嫉妬するでしょう。自分の無力さを嘆いて枕を濡らすでしょう。

Zメンバーが出てくるまでの間、彼は繰気弾狼牙風風拳といった必殺技を用いてたくさんの敵を葬ってきたのに、いつの日にか主要メンバーの座を奪われたのですから。

 

僕らはいつでも悟空に憧れます。

ピンチのときに駆けつけて世界を救い、いつでも仲間に頼られて、激闘の末に強敵を制して最終的には認め合える。

でも、悟空はたったひとりしか居ないのです。

 

現実世界はもっとムゴい。

空も飛べないし、かめはめ波も打てないなかで僕らは悟空のようなカッコいいヒーローになることを夢見ているのです。

ヒーローになるために僕らができることは限られます。

学生時代は学校が戦場なので勉強や部活しかありませんし、大人になれば職場が戦場になるので仕事に打ち込むしかありません。

どうしたってパッとしないし、生まれ持った素質や生育環境による差も大きく影響します。

そんな中で僕らがずっとヒーローで居られるわけもありません。

ヒーローであろうと思えば思うほど現実の自分が惨めに思えて、いつしか「ヒーローになりたい」という欲望にさえ蓋をしてしまうでしょう。

ヤムチャもいつの日か自分の力不足を実感して、嫉妬や羨望の先で諦めを選んだのではないでしょうか。

そして

 

「ヒーローになりたい」

という純粋な熱意が歪められていくと

 

「ヒーローなんて居ない、目指しているやつはガキだ、恥ずかしい」

という否定の言葉に変わっていきます。

こうした心のはたらきはいくつかありますが、まとめて「防衛機制」と呼びます。

 

ヒーローを目指す熱と、ヒーローの卵を嘲笑おうとするゾンビ

このように、無意識のうちに心を守ろうとして壁を作ると、もう見るのも嫌になってしまうでしょう。

だから、自分が昔に諦めたものを本気で目指している人を見ると、とても苦しくなってしまいます。

ときには攻撃したり、嘲笑ったりといった防衛行動を取ることもあるでしょう。

これが中二病的思考が社会から隔絶されている理由です。

 

つまり、「中二病は恥ずかしいものだ」という考えを抱いた人は、とうの昔にヒーローになることを諦めてしまった人と言えます。

そして諦めてしまった人は、自分がもう一度「ヒーローになりたい」と強く願うまで、ヒーローを目指す方を冷ややかな目で見続けることになるのです。

諦めてしまった人は、暗闇の底から手を伸ばして引きずり込もうとするゾンビによく似ています。

 

ゾンビの冷気とヒーローの卵が持つ熱気は伝播し合う

ゾンビの何が厄介かといえば、その冷めた視線や刺すような言葉がヒーローの卵の持つ熱意を冷ましてしまう、という点です。

 

「お前、いい加減オトナになれよ」

「夢ばっか言ってないで現実生きたら?」

「叶うわけないでしょ、そんな夢」

 

様々な角度から放たれる呪詛は、計算され尽くしたストライカーが放つシュートのようにやすやすとゴールへ滑り込み、ヒーローの卵の心をぐちゃぐちゃに支配します。

彼らのずるいところは、「正論」を盾に自分の意見を放つところです。

意見と意見のぶつかり合いであれば、まだ話し合う余地もあるでしょう。

しかし、正論をぶつけるだけの彼らとはそもそも会話ができません。批判して、足を引っ張りたいだけなのですから、正直なところ「話すだけムダ」なのです。

 

そこまで分かっていても、ヒーローの卵は放たれた呪詛をかわしきることができません。

そしてヒーローになる前に倒れてしまい、いつの間にか呪詛を吐き散らすゾンビへと成り果ててしまうのでしょう。

ゾンビの持つ冷気は必ず伝播します。どれほど強い熱量を持つ相手に対しても、です。

 

対して、ヒーローの卵やヒーローが持つ熱もゾンビたちには強く響きます。

それもそのはず、彼ら彼女らも、元々はヒーローの卵だったのですから。

ただ、ヒーローの熱があまりにまっすぐで、純粋すぎて、上手く受け取ることができないかもしれません。

自分たちが願ってもがいた先で叶えられなかった希望を手にした人間が吐く言葉なんて、素直に聞き入れられるはずもないでしょう。

 

「諦めずにやれば夢は叶うよ」

「世界を良くするために自分の目標を考えてみようよ」

「自分のことを嫌いにならないでよ」

 

このような言葉は眩しすぎて、長くゾンビとして生きてきた人にとっては、きっと上手く受け取れないでしょう。

しかし、それは強い執着となり、ゾンビたちに対して強く響きます。

ヒーローの持つ熱もまた、ゾンビに対して伝播している、と言えるでしょう。

 

同年代で夢を語り合える仲間がいることの幸せ

急にどうしてこんなことを書き始めたのか説明します。

僕が住むシェアハウスにはモデルとして活躍している女の子が住んでいるのですが、普段はおちゃらけている彼女が時折見せる「熱さ」に感動したためです。

 

自分の本心を見せることを極度に恐れる彼女は、やはり自分の熱量についても隠したがります。

そんな彼女とは、よく「フリーランス」という共通点もあり仕事のことを話し合うのです。

仕事のことを話す彼女はどこか臆病で、自信を持ちきれない謙虚さを讃えています。

そして一皮めくれば、死力を尽くして「よく生きる」ために命を燃やさんとする膨大な熱量を感じるのです。

その熱量はどこか懐かしく感じるものでした。僕が生活保護家庭から抜け出す際に振り絞って出した熱量と、よく似ているのです。

 

それをどうしようもなく心地よく感じるのはなぜか。

きっと僕は強い自分が大好きだった、ヒーローであるという自負があったんだと思います。

自分の環境をひとしきり嘆いて、ボロボロに打ちのめされて、それでもなお立ち上がる自分の姿に、世界一惚れ込んでいました。

だから、自分と似たような熱を持つ人を見ると、僕は涙が出そうなほど嬉しくなって、何が何でも力になりたいと願うのでしょう。

 

この人の火がいつまでも燃え盛っているような世界であってほしい。

この人なら、あらゆるゾンビに熱を与えて、ヒーローの卵を奮い立たせて、同じようなヒーローの横でさらに熱く生きていけるだろうと思うのです。

 

僕はまだまだヒーローの卵ですが、孵化できるように熱を放出していこうかなと考えています。

とはいえ、僕の理想はパッと見は冷たいのに中が熱い「粋」な男なので、表面的な変化はないと思いますが。

 

最後に、僕が最近聴いた曲の中で最も中二病を爆発させているUVERworldの「Q.E.D」から、大好きな歌詞を抜粋して紹介します。

 

俺達はそう・・・もうガキじゃない

でもつまらない大人になる気がないなら

無謀な夢叶えて言ってやるよ

此処に希望はまだある

俺達にだってまだある

 

その理想郷へ行こうぜ

本当の笑顔失うな

どこまでも行こう諦め悪く

最低で最高な俺達でいよう 

 

思えば、彼女は「人が自由に生きる世界」を望んでいました。

環境や生き方、体型、職業、人種といった壁を超越して、誰もが自由に楽しく生きていける世界があればいいのに、と。

彼女はその世界を作らなければなりません。そして、その世界に行くことで救われた人たちから、ヒーローとして羨望を集めるのです。

 

無謀な夢を叶えた先で、理想郷の中で、彼女は本当の笑顔で笑うのでしょう。

そして、次のヒーローの卵へ「此処に希望はまだある」と、その生き様で語るのでしょう。

熱意は消えない灯火となって他者へ伝播していき、ヒーローが消えることはきっとありません。

 

ところで、僕も少し前まではとてつもない熱さの炎を抱えて生きていました。

でも僕の炎はきっと歪な形をしていたから、いろいろな人を傷つけて、自分を鼓舞するためだけにゴウゴウと燃え盛っていたので、一度消しました。

 

それが最近、優しく、しかし確かに灯り始めたのです。きっと回りにいる人が少しずつ火を分け与えてくれたおかげです。

この火を使って、今度は僕も彼女のように誰かを温めたり、火を移したりできればと思います。

僕はこの先もずっと”最低で最高な人間”として、いつまでも中二病的思考が抜けないやつとして、胸を張って生きていきたいと思うのです。

僕が理想とする 「優しい世界」を実現するためにも、僕は今度こそ、本物のヒーローにならなくちゃいけないのです。